2011年9月12日月曜日

「日下」問題その後(7)


「飛鳥」について補足。

(A)

 前回は「時期が特定しづらい」としたままだった、

「飛ぶ鳥 飛鳥壮士(おとこ)が …」(16-3791)

についてだが、沢瀉久孝『萬葉集注釋』(巻16)によれば、その詞書の

「偶逢神仙、迷惑之心無敢所禁」(たまたま神仙に逢へり、迷惑の心敢へて禁ふる所無し)

『遊仙窟』の「忽遇神仙、不勝迷亂」を出典とするとしている。またこの歌に答えた歌にも『遊仙窟』の影響があるという(16-3795の「無事」)。

 『遊仙窟』は唐代の伝奇小説で、日本に伝来したのは8世紀初頭とされている(小学館『日本国語大辞典』)から、朱鳥元年(686)に日本にあったとは思えず、その影響を受けているこの歌の「飛ぶ鳥の」は、より新しい時期のものでると見て良いだろう。つまり、「飛鳥(あすか)」の古い例にはらなない。


(B)

 また、人麻呂が689年に「飛ぶ鳥の 清御原の宮に 神ながら 太敷きまして」(2-167)という歌を詠んでいることを紹介したが、類似の歌があった。
 持統7年(695)に行われた天武の御斎会での(たぶん持統の)御歌で、

「明日香能 清御原乃宮尓」(2-162)

とあるので、こちらは「アスカ」で間違いない。
 これをどう考えるかだが、人麻呂(2-167:689年)が「トブトリ」で持統(2-162:695年)が「アスカ」なら、浄御原につく修辞が「飛ぶ鳥の」から「明日香の」に変わったと見ることもできる。人麻呂も「アスカ」なら、変わっていないだけなのだが。

 なお、この人麻呂の「飛鳥の」について、同じく『萬葉集注釋』が、

「飛鳥」を諸本諸注に多くアスカと訓んでゐるが、紀州本にトブトリとあり、それが古訓と思はれ、玉の小琴にトブトリとあるが正しい。地の「あすか」に飛鳥の文字を宛てる事は枕詞から轉じたものでまだこの天武の御代にはない。天武六年に死んだ小野朝臣毛人の墓志に「飛鳥淨御原宮云々」とあってアスカに飛鳥と書かれたやうに見えるが、その墓志はその時に書かれたものとは認め難く

としているのは興味深い。
 まず、「玉の小琴」ということは宣長先生も同意見ということで、心強い(^^;
 また、金石文の中で小野朝臣毛人の墓志に「飛鳥淨御原宮云々」とあることが分かった。しかも「その墓志はその時に書かれたものとは認め難」いということなので、確認してみることにする。
(ただし、この歌は草壁の挽歌であるから明らかに「天武の御代」ではなく、また例の朱鳥改元を越えているので、沢瀉氏の説は解せない。少なくとも私の立場とは異なっている)。

(C)

 小野朝臣毛人は例の小野妹子の子で、その墓誌が慶長18(1613)年に崇道神社(現在の京都市左京区上高野)裏山の石室から見つかっている。

 写真と解説が、奈良文化財研究所のサイトにあるので、そこから引用してみる。

石室に納められていた墓誌は、長さ58.9cm、幅6.0cmの短冊形をしている。鋳銅製で鍍金され、毛人が天武天皇の代に太政官と刑部大卿を兼任、「丁丑年」677年(天武6)に墓が造られ葬られたことを48字で簡潔に記す。小野氏が「朝臣」姓に改められるのが、684年(天武13)であること、「大錦上」の位は死後贈られたと考えられることなどから、墓誌は墓より後に作られ、持統朝以降に追納されたと考えられている。冒頭に、天武天皇を「飛鳥浄御原宮治天下天皇」と表現する。

 つまりこの墓誌には「丁丑年(677)」の年紀はあるが、「朝臣」姓を使っていることから作られたのが早くとも684年であることは間違いない。また彼の没時の最高冠位は「小錦中」であったことは、のちの記録(『続日本紀』和銅7年(714)4月15日条の小野朝臣毛野(毛人の子)の薨伝)に明記されている。大錦上は小錦中より4階も上で、死後の追贈ということになる。
 なぜ「持統朝以降」なのかは分からないが、仮に最古の684年としても朱鳥改元のわずか2年前であり、「飛鳥」が朱鳥以前にはなかった可能性は依然高い。


***

 うーん、飛鳥のことばかりになってしまう

 というのも、「日下」については、すでに諸氏(沢瀉久孝→西宮一民→谷川健一)とも「日の下のクサカ」なる枕詞的修辞句があったのではないかと推定しているだけで、実例は一つも見つかっていない。実例がないのだからその説は無理ではないかというのが私見だから、おそらく双方に歩み寄りの余地が無い。その意味では話は終わっている。

 そこで他の「枕詞が地名に転化した例」の検討を始めたわけだが、確実というか定説と思っていた「飛鳥」ですら、どうも雲行きが怪しい。「春日」は辛うじて古例があるが、「長谷」も実例はないことが分かった。
 してみると、疑うべきは、もはや「日下が枕詞から来ている説」ではなく、「枕詞が地名表記に転化する」ということそのものではないか、と感じ出している。

 これはそれこそ大変なことで、宣長以前も含めて近現代に至る国文学研究の歴史を大々的に否定することになるので、さすがに思いつきが過ぎる気もする。
 しかしどうだろう。あり得なくはない気もするのだ。

 「飛ぶ鳥の」が枕詞として「アスカ」にかかる理由は定かではない。
 ならば、「アスカ」が同じく定かでない理由で「飛鳥」の字を当てられ、その後に地名から枕詞が生まれたとして、何もおかしくはない。見てきたように「飛ぶ鳥の」という枕詞の実例と「飛鳥」という地名表記の実例は時期が近接している。地名から枕詞を作るのならともかく、枕詞が地名表記に転化するのに、ほんの数年でいいのだろうか?
 実例が残っていないだけで古くから「飛ぶ鳥の」という枕詞があったというのは、都合が良すぎないか?
 「春日」も同じだ。春の日は霞むからカスガに「春日」をあてるという思考に、わざわざ枕詞を介在させるの必要があるだろうか?そして、先に「春日(かすが)」という地名表記が生まれて、そこから「春日の」という枕詞が生まれた可能性を否定できまい。
 枕詞の実例がない「長谷」は言うまでもない。泊瀬の地が「長い谷」だからというなら、それで地名の当て字にしたという話で十分だ。なぜ見つかってもいない枕詞を想定しないといけないのか理解に苦しむ。
 読み方の根拠のわかりにくい地名は他にもある。「斑鳩(いかるが)」「太秦(うずまさ)」「百済(くだら)」「依羅(よさみ)」「刑部(おさかべ)」などなど。これらについても、それこそ適当に「枕詞的な修辞句」を作ってもいいのだろうか。こういった例と、(「飛鳥」や「春日」はともかく)「長谷」や「日下」は何が違うのか、よく分からないのだ。

 うん。国文学の常識に挑戦してみようか。

3 件のコメント:

  1. 面白いですねぇ。続きを楽しみにしてます。

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  2. 熊谷さん、コメントありがとうございます。

    (8)をupしました。先行研究をみつけてしまってさらに昏迷です。

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  3. 徳川家康が知っていた古代年号
    最近珍しい書籍を教えてもらいましたので、紹介したいと思います。
    安土桃山末期、江戸初めの1608年に、ロドリゲスというポルトガル人が日本での布教のため、日本語から日本文化まで幅広く収集し表した、「日本大文典」という印刷書籍です。
    広辞苑ほどもあるような大部です、家康の顧問もしていました。
    興味深いことにこの本の終わりに、当時ヨーロッパ外国人により聞き取られた、日本の歴史が記載され、倭国年号から大和年号に継続と思われるものが記載されていることです。この頃の古代からの日本の歴史についての考を知ることができるのでしょうか。もう既に見ていますか。

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