さて、いよいよ『古事記伝』とご対面した(筑摩書房『本居宣長全集』)。彼がどう言っているのか、まずはご高説を拝聴しよう。
(1)「日下」について
実はこれにかなりの分量が割かれていて、ちょっと驚く。
まず序文(「亦姓ノ日下ニ玖沙訶ト謂ヒ、名ノ帶ノ字ニ多羅斯ト謂フ、此ノ如之類、本ニ隨ヒテ改メズ」)について、「如此之類とは、まづは長谷春日飛鳥三枝などなり」とある。ここでは枕詞云々はない。また、すでに「三枝」が加わっている)。
次に問題の神武記。神武が「浪速の渡」を越えて上陸した「日下の蓼津」について、
日下は、久佐訶と訓て地名なり。是は河内国河内郡なる日下にはあらざるべし、【河内郡なる日下は、古書に多く見えて名高し、其処の事は、下巻雄略段に云べし、又日下と書く文字のことなども彼処に云む、】其故は、難波海をば過て、なほ海路を幸行て、泊賜へる津なれば、必難波より南方にて、海邊なるべければなり。故思に、和名抄に、和泉国大鳥郡に日部【久佐倍】郷あり、式に同郡日部神社もあり、此郷今草部村と云り、是実は日下部にて、此の日下は是なるべし。
と、その場所を河内(生駒西麓)の日下ではなく、和泉の日部(くさべ)であるとしている。
たぶん現在この説は取られていない。古代には河内の日下の近くまで海(河内湖)が迫っていたことが知られているからだ。これは考古学的な研究の成果で、宣長の知らなかった事実であるからやむをえないだろうが、当時の状況で「第二の日下」を挙げていることは慧眼と言っていいだろう。この、通説を鵜呑みにしない視点は見習いたいところだ。
もちろん、この2つの日下は無関係ではない。また、「日部」を「くさべ」と呼ぶのは「日」を「くさ」と単独で読む証拠にはならない。そのあたりは宣長先生もちゃんと指摘している。
【下字を略て日部と書るは、凡て諸国郡郷の名、必二字に約て書例にて、大和の葛城上下郡を、葛上葛下、磯城上下郡を、城上城下と書と同じ、然るを和名抄に久佐倍とあるは、佐下に加字脱たるか、又今も草部と云を以見れば、和名抄のころより既く訛て久佐倍と云ならへるか、如何にまれ元は久佐加倍なるべし、日下と二字連ねてこそ久佐加とは読め、日字のみを久佐と読むべき由なし、春日を加須賀とよめばとて、春一字を加須とはよみ難きを思へ、
そう取る方が普通のなのは分かる。ただ、足利氏の「「日」は「草」の略字説」だってあり得ないわけじゃない、と弁護したいところだが、宣長先生は続ける。
又姓氏録和泉国皇別に、日下部首、また日下部など云姓あり、是等も日子坐王の御末にて、河内国の日下部氏と元は一なり、【(略)】故思に、彼日下部氏の人等の分て、此和泉国大鳥郡にも住ける族の広ごるより、其処の名も日下とは云けむ、されば和泉なるも、元は彼河内の日下より出たる地名なるべし、
それはまあ、そうだろう。このあたり、考証の詰め方が近現代の文献史家と変わらない気がする。
さて、とにかくも「日下」の語源だ。雄略記の段を見てみよう。
日下は、河内国河内郡にて今も日下村あり、伊駒山の西方なり、【白橿原宮段に日下之蓼津、玉垣宮段に、日下の高津池などあるは、和泉国にて別なり、其由彼處々に云へるが如し】地名の義詳ならず、【今時暗がり峠と云を以て思へば、若くは暗坂と云こともやあらむ、師は低坂の比を省けるなり、と云れつれどいかゞ、】日下と書由も詳ならず、【こは波都世を、長谷、佐伎久佐を、三枝と書たぐひにて由あるべし、按に此地名暗坂の意にて、其を日下と書は、日の下れば暗きものなるを以てにや、なほよく考べし、師は低坂にてその比を日と書き、久を省き下ると云訓を借て坂を下ると書るにや、と云れつれど甚物遠し。され此地名書紀には草香と書れたり、凡て彼紀は地名などの字多くは旧きに依らずして新に改て書かれたり、古くは皆日下と書りしなり、】姓氏録日下部宿祢も此地より出たり、即ち河内国にも日下連日下部連などあり、さて御兄の大日下王、此の大后共に此地に住坐ちし故に御名に負給へるなり、
さすがに宣長は架空の枕詞を考えてはいない。師(真淵)の「「低坂(ひくさか)の「ひ」が省略された」という説にも疑問を呈している。その上で潔く?「詳ならず」とし、「波都世を、長谷、佐伎久佐を、三枝と書たぐひ」とだけ書いている、これは序文の注記のくりかえしである。
(2)「長谷」について
その「長谷」だが、こちらも雄略記の段で、次のように言う。
名義は未思得ず、【若くは此川大和の国の真中を流れたる其の初の瀬の意か、川上はなほ遠けれども国中にては此地ぞ上瀬なる、さて長谷と書ことは地のさまに因りてなるべし、さて此地名中昔より、波世とも云り、今世にはもはら、波世とのみいへり、】
「はつせ」については「初の瀬」つまり(国中平野において)川の流れ始めだから、という推測をしているだけである。また「長谷」という表記については、「地のさま」つまり地形によるのだろうとする。ここでも、枕詞だとは言っていない。
日下にせよ長谷にせよ、用字法の語源については追及を早々に諦めている。逆に資料があると、河内の日下か和泉の日下かについてはきちんと追及しようとする、そういう態度であることがうかがわれる。勝手に枕詞を作ったりはしないのである。
しかし、枕詞が存在すると、とたんに強気になる。「春日」と「飛鳥」を見てみよう。
(3)「春日」について
孝霊記の段では、「春日」についてこう注記する。
書紀開化巻に、春日此云箇酒鵞、継体巻勾大兄皇子御歌、播屡比能、[加+可]須我能倶[イ+爾]【武烈巻歌にも如此あり、上に引り、波流比能と云枕詞は、師の冠辞考に、春の日のかすむと云かけたるなるとあり、万葉九に、春日之霞時爾、とあるにて知べし、さて加須賀を春日と書ことは、云なれたる枕詞の字を、即その地名に用ひたるものなり、飛鳥の明日香云から、明日香をやがて飛鳥と書と同列なり、此事別に委く云り、】
「云なれたる枕詞の字を、即その地名に用ひたるものなり」と言い、飛鳥と同じだとする。いわゆる通説である。開化紀と武烈紀の歌謡もきっちり紹介されている。赤人の歌は別に必要ないということか。
(4)「飛鳥」について
いよいよ「飛鳥」である。履中記の段の「遠飛鳥」を見てみる。
さて此地名を飛鳥と書由は、書紀天武巻に、十五年改元曰朱鳥元年、仍名宮曰飛鳥浄御原宮、【此飛鳥は、トブトリノと訓べし、これをアスカと訓は非なり。其故は、朱鳥の祥瑞の出来るをめで賜ひて、年号をも然改め賜ひ、大宮の号にも、其朱鳥を取て、飛鳥の云々とは名け賜へるなり、あすかと云むは、本よりの地名なれば、殊更に仍名宮曰、など云べき由なしを思ふべし】とありて、大宮の号を、飛鳥云々と云から、其地名にも冠らせて、飛鳥の明日香と云、終に其枕詞の字を、即地名にも用いて書たる物にて、加須賀を春日と書例に同じ、【古き歌に、春日の、加須賀と云る、其は春日の霞むと云意のつゞけなるを、其枕詞の春日てふ字を、やがて地名に用いたるなり。明日香を、飛鳥とも書も、此の例なり、】かくて河内の明日香も、此倭のに傚ひて、同じく飛鳥とは書なり。
まず、「飛鳥浄御原宮」の「飛鳥」は「トブトリノ」と読むべきだ、それはアスカはもともとの地名だから、それではことさらに(朱鳥によって)宮に名付けたという理由がない、と言う。
次に、宮名を「飛鳥(とぶとりの)浄御原宮」と言ったので、地名も「飛鳥(とぶとりの)アスカ」と言うようになり(枕詞)、そこから「飛鳥」が地名表記になった。それは「春日」の例と同じである、と言うのである。
さて、ではこれを受けてどう考えるかだが…。
まず(1)日下(2)長谷については、特に異論はない。存在しない枕詞を作らないという点で同感である。
(3)春日については、「はるひ」という枕詞と「春日」表記の時期の前後関係を推定する材料がないので反論がしにくいが、「春日の霞」から「カスガ」に「春日」の字を当てることは、枕詞を経なくても普通に思いつくのではないか、と主張しておく。
(4)飛鳥については、「飛ぶ鳥の」の枕詞がこの朱鳥改元のさいに生まれたとし、そのあとに「飛鳥」表記が生まれたとするなら、「終に」というほどの時間があったとは思えないと、やはり主張したい。もちろん、宮名に「飛鳥」が使われた時点でこれが地名表記化し、そこから枕詞が生まれたとして何の不都合もないことも。
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どうも、これ以上調べても何も出てこない気がしてきた。
枕詞→地名はあっても地名→枕詞はない、という発想は、理屈ではない気がするからだ。
前回考えた「日本」だが、吉田孝『日本の誕生』(岩波新書 1997)に興味深い記述があった。
山上憶良が遣唐使からの帰国に際して詠んだ歌、
いざ子ども 早く日本へ 大伴の御津の浜松 待ち恋ひぬらむ (1-63)
の「日本」(現表記)を「高名な万葉学者の先輩」をはじめ広く「やまと」と訓まていること、特に「大和へ」と訓み下されてしまっている場合もあることを、著者は「もし憶良が知ったら、どんなに悲しむだろう」と嘆いている。
吉田氏が言うように、この遣唐使が「日本」国号をはじめて名乗ったこと、その帰国に際して歌った歌であることを考えれば、ここは「日本」でなければならないはずだと私も思う。しかし、そうではない。吉田氏が例にあげた岩波古典文学大系本だけでなく、多くのテキストが「大和」に変えてあり、あるいは「ヤマト」と読ませている。一例、「ひのもと」という読みはあったが。
吉田氏は、「「日本」の国号が「ひのもと」という語に由来するという、古くからある説」「「日本之 山跡国乃(ひのもとの やまとのくに)」という歌があり(巻三ー三一九)、「ひのもとの」という枕詞が先にあって、そこから「日本」という国名が生まれてきたという説」について、
しかし、『万葉集』では、ヤマトにかかる枕詞としては「そら[に]みつ」「しきしまの」「あきづしま」が初期から用いられているのに対して、「ひのもとの」は前掲の奈良時代前半の歌のみである。「日の本の」は「日本」の国号が成立したのちに生まれた新しい枕詞とみられる。
(前掲書205ページ)
と批判する。
私も同感である。前回も言ったが、この歌の作者と推定される高橋虫麻呂の活躍時期は奈良時代である。吉川弘文館『日本古代氏族人名辞典』には「天平四年(七三二)四月、藤原朝臣宇合が西海道節度使として派遣される時、その壮行を送った歌(『万葉集』六−九七一・九七二)を作っており、その前後に活躍した歌人と思われる。…歌によると虫麻呂は東国に赴いたことがあり、…この赴任を養老三年(七一九)宇合の下で、常陸の国庁へ出向いたものとみる説があり、そこで『常陸国風土記』編集のことにも携わったという。また一説に天平六年(七三四)以降の赴任であるともいう。…」とある。この歌が、大宝の遣唐使より以前、あるいは大宝律令の制定に先行する可能性はなく(浄御原令は言うまでもない)、「日本」国号が枕詞から生まれたとする根拠は、何もない。
にもかかわらず、枕詞→地名表記を疑わない。
「日本」を「やまと」としか読もうとしない発想も、これと同じ土壌から生まれているように思えてならないのだが、これは僻みだろうか?
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