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2011年9月24日土曜日
「日下」関係その後(10)
最後に、私と意見が近そうな(ある意味厄介な)、(a)本田義憲氏「万葉歌人と飛鳥」(井上光貞・門脇琴一編『古代を考える・飛鳥』吉川弘文館(1987)を読んでみた。
本田氏はまず、万葉に「明日香」が多く、記紀に「飛鳥」が多いことなどが「『古事記伝』を承けて、「明日香」が古く、「飛鳥」はその枕詞「飛鳥」の文字から宛てた、と多く説かれる理由であろう」としつつも、「しかし、これは疑わしい。」と言う。
まず「明日香」表記について、「確実には持続五年(六九一)の柿本人麻呂作歌(巻二、一九四、以下、この場合『万葉集』の名を省く)に初見すべきであって、おそらく詩人に飾られた、たんに音仮名でない意味性をもつであろう」と言う(これは例の「飛ぶ鳥の 明日香の川の 上つ瀬に 生ふる玉藻は…」の長歌のこと)。確かに「明日香」と「阿須迦」(『船首王後墓誌』)とではセンスが全然違う。では、なぜ「飛鳥」の方が古いと言えるのか。本田氏は言う。
人麻呂歌集の、写本の上の問題はありながら、要するに略体歌に表記「飛鳥川」がのこり(巻十二、二八五九)、このアスカに写本の上の異同はなく、かつ、確かに大和のアスカにちがいないことであった。略体歌のこの表記は、独創とまではいわず、また、天武九年前後とまではいわなくても、おそくとも朱鳥元年(六八六)以前かと見ることが可能であろう。とすれば、これは、赤い雉の瑞祥による(『扶桑略記』)のか、朱鳥と改元して宮号を「飛鳥浄御原宮」と定めたという(「朱鳥元年紀」)のに先行する。
12-2859の歌とは、「明日香川高川避(たかがはよ)さし越ゑ来しをまこと今夜は明けずも行かぬか(飛鳥川 高川避紫 越来 信今夜 不明行哉)」で、このような表記形態を略体歌という。
この論考の前半には、略体が人麻呂の歌の古い表記法であることが述べてられている。そのことが、この歌の作成時期の古さ、さらに「飛鳥」表記の古さの根拠となっている。
このことがどのくらいの妥当性を持つのか門外漢の私には何とも言えないが、もちろん有力な反証もない。
私はこれまで、「飛鳥」表記にも枕詞「飛ぶ鳥の」にも、朱鳥を確実に遡るものがないことから、両者がほぼ同時期(朱鳥改元前後)に作られたのではないかと考え、時期が隣接していることから枕詞→表記ではなく表記→枕詞ではないか、それは枕詞一般のことではないかと考えているわけだが、「飛鳥」表記が朱鳥より古いものであったら不都合かというと、実はそうでもない。枕詞「飛ぶ鳥の」を考えたのは人麻呂だろうが、「飛鳥」表記を考えたのが持統と考えたのは飛鳥浄御原宮の命名からの単純な連想にすぎない。それよりも、アスカにおいて「飛鳥」表記が枕詞より古い可能性が高くなる方が、ありがたい。
それにしても、「日下」地名表記について考え始めてあちこち突き詰めてきたわけだが、「枕詞から地名表記になった」という「定説」が非常に脆弱で異論もあることが見えてきたのは予想外のことだった。おそらく「飛ぶ鳥のアスカ」が震源だろう。これがあまりに有名でまたキレイに決まっていることから、「春日」や「長谷」へ敷衍されていったのではないかと思う。それにしても「日本」や「日下」は拡大解釈に過ぎると思うが。
ただ、これらは新しい説ではない。(a)の本田氏も挙げているように、『古事記伝』の影響は小さくないだろう。どうあっても宣長先生のご高説を直接読まなくてはいけない。次こそ『古事記伝』にあたってみたいと思う。
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