2011年8月30日火曜日

「日下」問題その後(3)

 「日下の草香」の類例である長谷・春日・飛鳥について。

a.「飛鳥(とぶとり)の明日香(あすか)」→飛鳥(あすか)
b.「春日(はるひ)の滓鹿(かすが)」→春日(かすが)
c.「長谷(ながたに)の泊瀬(はつせ)」→長谷(はせ)

 なるほどと思うが、一応調べてみよう。特にどのくらい用例があるのか、いつ頃からなのか。

a.飛鳥


 「飛鳥」が「飛ぶ鳥の」の枕詞から来ていることは半ば常識化しているが、ちゃんと用例を確認したことはなかった。
 調べてみて、ちょっと驚いた。予想していたより『万葉集』の事例が少ない。

飛ぶ鳥の 明日香の里を 置きて去なば 君があたりは 見えずかもあらむ」元明(1-78:和銅3年)
飛ぶ鳥の 明日香の川の 上つ瀬に 生ふる玉藻は…」人麻呂(2-194:川島皇子の葬にて?朱鳥5年?)
飛ぶ鳥の 明日香の川の 上つ瀬に 石橋渡し…」人麻呂(2-196:明日香皇女の殯宮)
「… 飛ぶ鳥 飛鳥壮士(おとこ)が …」(16-3791)

 これだけしかない。
 しかも、最後の歌(竹取翁伝承を題材にした歌)を除き、いずれも天武朝以降の歌で、どうも歴史が新しそうである。
 また、人麻呂には「飛ぶ鳥の 清御原の宮に 神ながら 太敷きまして」(2-167:草壁殯宮)という歌がある。飛鳥浄御原宮を歌っているのだが、どうもこの歌が元ネタになっているのではないかと思われる。

( なお、四宮氏は飛鳥=アスカを「『日本書紀』の天武朱鳥元年の条に、飛鳥浄御原宮の名としてから」としているらしい(谷川氏の引用から)が、その根拠も不明。宮名ならばこれ以前にも飛鳥板葺宮もあれば飛鳥川原宮も飛鳥岡本宮もあった。近つ飛鳥のこともある。「飛鳥」という地名表記は『書紀』では履中即位前紀以降に散見する。なぜ飛鳥浄御原宮以降に限定されるのかも分からない。)

b.春日

 次に春日の「はるひ(の)かすが」の用例はさらに少なく、万葉には一例しかない。
 「山部宿祢赤人、春日野に登りて作る歌一首」の長歌の冒頭に、

春日を 春日の山の 高座の 三笠の山に…」(2-371)

とあるだけである。ただし原表記は「春日乎 春日山乃」なので、読みは確定できない。

 ただ、『日本書紀』の歌謡に2例ある。

「石の上 布留を過ぎて 薦枕 高橋過ぎ 物多に 大宅過ぎ 春日(播屡比) 春日(箇須我)を過ぎ…」(武烈即位前紀8月条)
春日(播屡比)の春日(哿須我)の国に」(継体紀7年9月条)

 「ハルヒのカスガ」という表現があったのは間違いなさそうだ。

 ただ、四宮氏があげている「春日の滓鹿」という事例(文字表示)は見つからなかった。「造語」らしい。
(カスガを「滓鹿」と表記しているの例は1例だけ、『万葉集』10-1844の「朝日さす春日(滓鹿)の山に霞たなびく」があったが。

c.長谷

 最大の問題は長谷。
「長谷(ながたに)の泊瀬(はつせ)」という用例を私は見つけられななかった。万葉にも記紀歌謡にも古今集にもない。一体どこに??
 確かに長谷をハセと訓むのは無理があるが…。
 もしかすると、これも四宮氏の推論なのではないか、と疑われる。


 これはやはり『地名学研究』を読まなくては…。

( なお言わずもがなだが、文字表記とその使用は必ずしも一致しない。
例えば『万葉』の山部赤人の歌の文字表記は、赤人がそう表記したのか、万葉編者がその字を当てたのかは確定できない。記紀も同じで、古い時代の記事だから用例が古いとは断言はできない。)

2011年8月25日木曜日

「日下」問題その後(2)


 文庫本でない元の『白鳥伝説』(集英社 1986)を近くの図書館で見つけたので再度確認した。
 結果的には全く同じ内容であったが、前回私の引用ミス(誤脱)もあったので、再引用する。

 ここに西宮一民氏が『地名学研究』(第十・十一号合併特別号)によせた一文がある。それによると、日の下(した)のクサカという枕詞的な修辞句がはじめにあったという。その推論は次のような表現形式を参考にしている。「長谷(ながたに)の泊瀬(はつせ)」が「長谷」と記してハセとよませている。また「春日(はるひ)の滓鹿(かすが)」(春日の霞む)が春日と記してカスガとよませている。さらには「飛鳥(とぶとり)の明日香(あすか)」(『日本書紀』の天武朱鳥元年の条に、飛鳥浄御原宮の名としてから)が、飛鳥と書いてアスカとよませている。
 このように、枕詞的に用いられた修辞句が、やがて地名表記にそのまま使われるようになった例は、長谷、春日、飛鳥に見られるが、それを日下(くさか)に及ぼして、「日下(ひのした)の草香」という枕詞的修辞句があって、それが地名の訓(よみ)となったとみることができないか。

(前掲書「第一章 ひのもと考」37頁)

 とにかく、現時点で次のようなことが判明した。

(1)「日下」が枕詞的修辞句からできた地名表示であるという谷川氏の主張は、西宮一民氏の説である。ただし、四宮氏は「日の下」を「ひのした」と読むが、谷川氏は「ひのもと」と読むところに違いがある(というか、違うのはそこだけ)。

(2)四宮説=谷川説は、「日下の草香」という枕詞的修辞の実例があるのではなく、長谷・春日・飛鳥の例からの類推である。

 仮に「日の下の草香」という表現があったとして、それが「枕詞的修辞句」と言えるかどうかは用例を見てみないとわからない。にもかかわらず、国文学者の四宮氏も長谷・春日・飛鳥の例から類推しているだけである。

 くりかえしになるが、これは論理が循環している。

 いま、論証しようとしているのは、「日下をなぜクサカと訓むか」である。
 そこで、長谷・春日・飛鳥の例を引き合いに出し、枕詞が地名の用字に用いられることがあるから、草香(クサカ)に「日下の」という枕詞的修辞句があったのではないか、と推測する。
 ここがおかしい。
 本来、まず「日下の草香」という用例があって、そのことと類例の存在(長谷・春日・飛鳥)から「日下」の訓みを解釈するのが流れのはずだ。つまり、日下をクサカと訓むのが枕詞的修辞句からだというなら「日下の草香」の存在が証拠であるべきなのに、その証拠がない。そこで、類例からそれ(「日下の草香」)があっただろうと言うのだから、これはまさに結論ありきで証拠をあとから作っていると言われていも仕方ないのではないか。

 現時点ではこれ以上の追求ができない。『地名学研究』をまだ見れていないからだ。
 そこで、手元の資料をもとに、類例となるはずの長谷・春日・飛鳥についてちょっと調べてみた。…すると、これもそう単純ではないことが分かってきた。

 常識も疑ってみるのは大事。ということで次回へ続く。

「日下」問題その後(1)


 「枕詞的『日下』」の出所を求めてさらに資料を探している。

 すると、谷川健一氏が著書『白鳥伝説』(集英社 1986)で、この「日下」地名についてくわしく?論じていることが分かった。
大阪市立中央図書館で文庫版(1988)を確認することができた。該当部分を引用してみる。

 西宮一民氏が『地名学研究』(第十・十一号合併特別号)によせた一文がある。それによると、日の下(した)のクサカという枕詞的な修辞句がはじめにあったという。その推論は次のような表現形式を参考にしている。「長谷(ながたに)の泊瀬(はつせ)」が「長谷」と記してハセと読ませている。また「春日(はるひ)の滓鹿(かすが)」(春日の霞む)が春日と記してカスガとよませている。さらには「飛鳥(とぶとり)の明日香(あすか)」(『日本書紀』の天武朱鳥元年の条に、飛鳥浄御原宮の名としてから)が、飛鳥と書いてアスカとよませている。
 このように枕詞的に用いられた修辞的が、やがて地名表記にそのまま使われるようになった例は、長谷、春日、飛鳥に見られるが、それを日下(くさか)に及ぼして、「日下(ひのした)の草香」という枕詞的修辞的があって、それが地名の訓(よみ)とみることができないか。
(集英社文庫『白鳥伝説』上 38頁)

 ようやく出典が見つかった。『地名学研究』(第十・十一号合併特別号)。また古い雑誌だ。

 あちこち検索して、大阪府立中之島図書館(書庫)にあることが分かった。今度は中之島かい。

 それにしても、手間のかかることだ。ちゃんと引用元を示してほしい。
 また、どこぞの大学にいれば、あちこち探さなくても全部あるんだろうな、と思う。その有り難さは、在野にいないと実感できない。学生のうちに勉強せいよ大学生。

2011年8月23日火曜日

「日下」地名についての疑義

「日下」という言葉がある。人名や地名に。
これを「くさか」と読むのは、まあ常識だろう。
では、なぜ「くさか」と読むのかというと、ちょっと難しい。

とはいえ、謎だ謎だと考えているわけではない。
1997年の「NHK人間大学」で故足利健亮氏が、実に得心のいく「仮説」を提示してくれている(「景観から歴史を読む」)。当時のテキストから引用してみよう。

 もう一つの例をとりあげます。日下という地名や人名がどうして「くさか」と読めるのか、という問題です。『日本書紀』神武紀の戊午年三月〜四月の条に、「草香邑(くさかむら)」「草香津(くさかのつ)」「孔舎衙坂(くさかのさか)」などと書かれる「くさか」地名が初出します。漢字表現が二種類であることは、漢字が当て字にすぎないことを物語っています。この場所は、大阪府東大阪市の生駒山西麓にあたり、今も日下という集落があります。
 そもそもその場所がなぜ「くさか」という地名になったかという問題、つまり地名起源は解けないという方が正しいと思いますが、神武紀の場合は漢字表現が読みと一致していますから、そのことには問題がありません。『万葉集』も「草香山」と表現していて問題がありません。『古事記』だけがなぜか「日下」の字を当てているのです。
(テキスト147頁。なおこのテキストは、増補されて『景観から歴史を読む』(NHK出版 1998)として出版されている)

この「地名起源は解けないほうが正しいと思います」という言葉は実に清々しいと思うのだが、それはともかく、氏は次のように「推論」する。

 どうしてこれが「くさか」なのか。「下」は良いとして、「日」はなぜ「くさ」なのか。私には長い間、不思議でした。しかし、ある日突然氷解したのです。答えは簡単、日は草の簡体字、草冠と十の部分を省略した簡体字と見れば説明ができるではありませんか。(同147頁)

これは私も衝撃というか、まさに目からウロコだった。
そんな強引な略語、と思う方もおられるだろうが、こういう例はけっこうある。氏の言葉を続けよう。

例えば木簡では、「マ」は「部」の簡体字であるという例もあるからです。『行基年譜』に草冠を二つ重ねた(略)字が、たびたび使われています。これが菩薩の簡体字であることは、早くから知っていました。(同148頁)

例えば大宝2年の御野(美濃)国戸籍を見ると、「村」→「寸」(『大日本古文書』1巻5頁)や「額」→「各」(同9頁)、「牟」→「ム」(同25頁)といった、思い切った略字を見つけることができる。こうした略字はよくあることなのだ。

さて、以上のように推論した足利氏は、次のように述べています。

 さて、日下をクサカと読むことに対する右の解釈が正しいなら、これは地名の意味を文字から解こうとする考えの危険性を言っていることでもあるのです。日下の地で、日に向かって戦ったがゆえに矢を受けて痛手を負ったとする五瀬彦(いつせひこ)の説話(『古事記』神倭伊波礼毘古の段)の影響からか、日下を難波(大阪)から東を望見して日の出の山の麓の意で生まれた地名とする解釈がありますが、これの失当は明瞭でしょう。(同148〜149頁)

まったくその通りだと思う。

ところが、この「日の出の山の麓」という解釈は、まだ根強く残っているようだ。

もちろん、足利氏も「解釈が正しいなら」と慎重に述べているが、根拠は示されているのだから、それ以上の明白な根拠がなけば「日の出る山の麓」的な解釈は成り立たないと思うのだが、どうもその辺が明白でないので、足利氏の説が腑に落ちた分だけ、強い違和感を感じている。

今回は、このことについて書いてみようと思う。

足利氏が、何(誰)を念頭に上述のような「危険性」を想定していたのかは分からないが、私が調べたところ、この説の中心的な位置にあるのは民俗学者の谷川健一氏のように思われる。
例えば、谷川氏は『隠された物部王国「日本(ひのもと)」』(情報センター出版局 2008)において、「日下」を「くさか」と読ませたことについて、賀茂真淵をはじめとする諸説を紹介したあと、次のように述べている。

 そこで私の考えを披露するのですが、たとえば「飛ぶ鳥」と書きまして「飛鳥」を「あすか」と読ませることはご存知だと思います。それからまた「春の日」と書いて「かすが」と読ませる。これは、「飛ぶ鳥の」というのは「あすか」の枕詞であったことから、「飛ぶ鳥」と書いて「あすか」と読ませるようになった。これらと同様に、「くさか」の枕詞が「日の下」であったと推測できるのではないかと思われます。
 読み方は、「日の下の草香」は「ひのもとのくさか」が正しい読み方です。
 それが後に「ヤマト」の枕詞「ヒノモトノヤマト」に変わるのです。それは神武東征以後の話です。
(『隠された物部王国「日本(ひのもと)」』57〜58頁)

まさに、上述の足利氏の解釈とは真逆の立場だ。
谷川氏がこの本を出されたのは、足利氏の人間大学での講義の11年後、NHK出版から『景観から歴史を読む』が出版(1998)されてから10年後のことだ。谷川氏は「足利説」を知らなかったのか、知っていて無視したのかは分からない。すでに物故された足利氏からの反論は期待できない。

仕方ないので、私的にだが、谷川氏の説を検証してみようと思う。

というか、論拠は非常に弱い。
日下の場所が大阪湾から見て「日の出る山の麓」であるということ以外で、新しい論拠らしきものは、「くさか」が「日下」の枕詞だったと推測できる、ということしか(直接的には)なさそうだ。
しかも、谷川氏は「「くさか」の枕詞が「日の下」であったと推測できる」と言っている。それを根拠に「ひのもとのくさか」が正しい読み方だと言っているわけだから、完全に論理が循環している。
飛鳥をアスカと読むのが「飛ぶ鳥の」という枕詞から来ているのは通説で、それを疑うつもりは今ないが、だからといってそれがクサカの論証に使えるわけではない。最低限、「草香」に「日下の」という枕詞が存在してはじめて、飛鳥の事例が論拠になるだけだ。もっとも傍証にしかならないと思うが。

「飛ぶ鳥のアスカ」は万葉に事例が多い。では、「日下のクサカ」の事例はあるのか?

私も谷川氏を信じて(?)、だいぶ探してみたのだが、どうしたことか全く見つからない。
『古事記』にも『日本書紀』にも『万葉集』にも、クサカに「日下」なる枕詞はついていない。
大岡信監修『日本うたことば表現辞典 枕詞編』(遊子館)を調べてみたが、そもそも「日下の」という枕詞が存在しないのだ。

ところが、もう一つ重要な問題がある。
それは、上述の引用部の冒頭に「私の考えを披露するのですが」とあるが、実はこれは谷川氏のオリジナルではない。
あとで見つけたのだが、谷川氏自身、別の著書、『列島縦断地名逍遥』で「日下」という地名について次のように論じている。

ただ西宮一民は、「日の下(した)のクサカ」という枕詞的な修辞句がはじめにあったという。その修辞句がやがて地名として表記されるようになった例は、「長谷(ながたに)の泊瀬」「春日(はるひ)の滓鹿」「飛鳥(とぶとり)の明日香」に見られる。これはいずれも長谷をハセ、春日をカスガ、飛鳥をアスカと訓ませている。それで「日下の草香」の場合も日下と書いてクサカと訓ませるようにになったのではないか、と西宮は言う。日下(ひのした)というわけは、大和からすれば宣長の言うように、太陽の下がる処だからであると西宮は言う。
しかし私は日下はヒノシタではなく、ヒノモト、つまり太陽の昇るところであった、と思っている。したがって「日下の草香」は「ヒノモトのクサカ」と訓むのが正しく、日下と書いてクサカと訓ませるようになったと思われる。
(『列島縦断地名逍遥』323頁)

なんだ、つまりは西宮一民という人の説の引用なわけだ。「私の考え」じゃないじゃないか、とまず思った。
まあ、「ヒノシタ」か「ヒノモト」かの解釈は違うので、そこが自分の説だと言いたいのかもしれないが(まあ私にはどっちでもいいのだが)、それにしても他者の説を部分的にせよ借用したのなら、そこは明記するのが当然だと思うのだが…。『隠された〜』だけ読んだ人は、この枕詞云々は谷川氏のオリジナル解釈だと思い込んでしまうのでフェアじゃないと思うんだけどいいのかしらん。まあ、西宮氏も故人だが。
そもそも、最初の引用部分を見ると、「飛鳥」はちゃんと説明しているが「春日」は中途半端に入っている。このあたり、ちゃんと咀嚼できてないからなんだろうかと、失礼ながら思いますな。『隠された〜』だけ読んでいる人には意味不明のはず。

それにしても、古典文学の権威である西宮一民氏の「ご推薦」となれば、もう少し調べてみようかと思ってさらに探求してみたが、やはり「日下のクサカ」なる「枕詞的な修辞句」は見つからない。

<以下にメモ書きが紛れ込んでいましたので削除しました。>