前回、加藤千恵氏の論文「「飛鳥」の表記についてー地名と枕詞ー」を知り、そこから参考文献として、(a)本田義憲氏「万葉歌人と飛鳥」、(b)廣岡義隆氏「あかねさす紫野ー枕詞における被枕摂取と隔語修飾について」をマークしてみたのだが、
もう一つ気になったのが(c)土橋寛『持統天皇と藤原不比等』(中公新書、1994)である。
加藤氏は
「「飛鳥」の表記に「アスカ」の音があてはまる何らかの理由があるはずである。現在残る資料の範囲で考えられるのは、枕詞「飛ぶ鳥の」である」とし、土橋氏の『持統天皇と〜』から、
アスカという地名の語源は不明と言わざるをえないが、それを「飛鳥」と表記する理由は、前日のように天武朝にこの表記が出現し、持統朝には定着していること、そして「飛鳥(とぶとりの)明日香の里」という表現も持統朝に出現し、その作者が柿本人麻呂と持統天皇であること(後述)を考慮すると、歴史的必然性のある文字であると考えざるをえない。
という箇所を引用しておられる。
実際に(c)にあたってみたのだが、まず「飛鳥」表記が天武朝に出現したことの証拠として、前に触れた「小野朝臣毛人墓誌」と、
「銅版法華説相図説」が引用されている。どちらにも「飛鳥浄御原宮治天下天皇」(後者は「大宮」)」という表現があるからだ。
「小野朝臣毛人墓誌」が、彼の没したという天武6年に書かれたものではなく、後世に作られて墓に収められたものと考えられることは
前にのべた。
「銅版
(ママ:「銅板」の誤植か)法華説相図説」は長谷寺に伝来するもので、同じ銘文に刻まれた「歳次降婁漆菟上旬」(歳は降婁(こふる)に次(やど)る漆兎(しっと)上旬」と訓読される)は戊年七月上旬を指すという。
土橋氏はこの戊年を686年(朱鳥元年)としているのだが、実はこれには698年(持統も「飛鳥浄御原大宮治天下天皇」と呼ばれ得る)説や710年説があって定説ではないので、根拠としては弱い。
思うのだが、
そもそも、朱鳥改元によって「飛鳥浄御原宮」と宮名をつけたという書紀の記載を信じるなら、「飛鳥浄御原大宮治天下天皇」という表記はそれ以降にしか現れるはずがない。朱鳥改元以前に「飛鳥」表記が存在したというなら、それは「飛鳥浄御原宮」以外の用例しか証拠にならないはずだ。「降婁」が686年だというならば、むしろ銘文の「上旬」か書紀の「二十日」が誤りではないのかと疑うのが順序で、
書紀の記載のうち朱鳥改元は採用して宮名を名付けた記事は疑うというのはどうだろうか。
また後者の銘文には「聖帝超金輪同逸多」とあり、これが則天武后の尊号(聖神皇帝)を受けるとの指摘から、この年号を銅板の実作年とせず、武周革命以後のある程度の幅を持って年代を捉えるという見解(田中健一氏「長谷寺銅板法華説相図の図様及び銘文に関する考察」)も、興味深いところだ。
次に、土橋氏は万葉の「飛ぶ鳥のアスカ」の4首をあげて、どれか最も古いかが問題だとする。4首とはもちろん、
A「飛ぶ鳥の 明日香の里を 置きて去なば 君があたりは 見えずかもあらむ」(1-78)
B「飛ぶ鳥の 明日香の川の 上つ瀬に 生ふる玉藻は…」人麻呂(2-194)
C「飛ぶ鳥の 明日香の川の 上つ瀬に 石橋渡し…」人麻呂(2-196)
D「飛ぶ鳥 飛鳥壮士(おとこ)が …」(16-3791)
である。ここで
氏はAだけを詳しく取り上げ、この歌は「一書には太上天皇の御製」とあるように持統の歌(飛鳥から藤原京への遷都の際の歌)であり、詞書に和同3年(710)に藤原京から平城京へ遷都する時に元明が歌ったものというのは、この持統の歌を元明がその時に「誦詠」したものだとする。
なるほど、と思う。遷都に際してアスカを偲ぶのならば平城遷都より藤原遷都の方が切実だろうし、元明が「誦詠」したのだとすると、詞書にある長屋などの地名も矛盾なく説明できる。藤原遷都は694年だから朱鳥改元(686)よりも後であるから、問題ない。
ただ、土橋氏は「どれか最も古いか」と問題設定しておきながら、Aしか説明しない。読者はAが一番古いのだと思ってしまうが、実はB(2-194)は河島皇子(691没)の殯宮の時に柿本朝臣人麻呂が泊瀬部皇女に献じた挽歌なので、こちらの方が(藤原遷都より)古いことになるのだが、そこは放置である(B・Cは紹介したところで年代を注記してあるのでまだ良いが、Dには何の解説もない)。また、
「「飛鳥(とぶとりの)明日香の里」という表現も持統朝に出現し、その作者が柿本人麻呂と持統天皇である」と主張しているが、厳密には「飛ぶ鳥の明日香の里」という歌はAしかない。上記のように人麻呂作のB・Cは「明日香の川」であるから、「その作者が柿本人麻呂と持統天皇である」は間違っている。しかも実はB〜Dは歌本文は紹介していないので、読者はA〜Dまですべて「明日香の里」だと誤解してしまう。
意図的なミスリードではないだろうが、どうもこの本はこういうところが荒く、文章も読み取りにくいので困る。
結論としては、土橋氏は「飛鳥」表記を天武朝に出現したとしているが、金石文の時代設定に厳密さを欠き、その「天武朝」とは朱鳥元年以後しか含めない。これは、事実上持統朝からと言ってよいだろう。ただ、
『万葉』1-78を持統の作歌とする見解は納得できる。
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次に、(b)廣岡義隆氏「あかねさす紫野ー枕詞における被枕摂取と隔語修飾について」(1994)を拝読した。
廣岡氏の造語という
「被枕摂取」とは、
「枕詞が特定の被枕に絶えず冠している(修飾している)ことから、次の段階としてその被枕を枕詞内に取り込んでしまう現象」(塙書房『上代言語動態論』2005、396ページ)のことである。
例えば「ぬばたまの月」という表現がある(17ー3988)。これは「ぬばたの」という枕詞が「夜」に冠することから、「ぬばたま」の中に「夜」が取り込まれてしまっていて、「ぬばたまの月」→「夜の月」となるのであって、闇夜ではない(詞書によればこの日のほぼ満月)というようなことである。
ここまでは、なるほどと首肯できるところである。そういえば枕詞「あしびきの」はほとんどが「山」にかかるが、「あしびきの岩」(3-414)という表現もあり、これは「山の岩」になる、という類だろう。
ところが、ここで廣岡氏は急に地名に掛かる枕詞に話を転じる。
(エ)飛鳥(とぶとりの) 明日香能里(あすかのさと) (1・七八、元明天皇)
(オ)春日乎(はるひを) 春日山(かすがのやま) (3・三七二、山部赤人)
(カ)日本之(ひのもとの) 山跡國(やまとのくに) (3・三一九、高橋虫麻呂)
これらの地名に掛ける枕詞においても同様のことが言えるのである。なぜ「飛鳥」と書いて「あすか」と読むことができるのか。このことは枕詞の「被枕摂取」でないと説明ができない。枕詞「とぶとりの」がなぜアスカといふ地名に掛かるのかは、諸説こそあるが、今となっては分からないことである。しかしながら、絶えずアスカという地名に冠していることにより、「飛鳥」に「あすか」の訓が定着した。一種の「被枕摂取」なのである。
(前掲書397〜398ページ)
そうだろうか。
「被枕摂取」という現象は否定できない。しかし、それは枕詞が被枕の意味を取り込んでしまうということであり、枕詞の音が被枕の音に変わってしまうということは同じとは思えない。
「飛ぶ鳥の」という枕詞が「アスカ」という地名を意味として取り込んでしまうことはわかる。
「飛ぶ鳥の宮」という表記がもしあれば、それはアスカにあった宮のことを指すのだろう。「飛ぶ鳥の水」というミネラルウオーターができるかもしれない。しかし、それと「飛鳥」を「アスカ」と読むこととは違うだろう。
「足引」と書いて「ヤマ」とは読まないし、「烏玉」と書いて「よる」とは読まないし、「垂乳根」と書いて「はは」とは読まないではないか。
また、地名に枕詞がつく例は多い。「八雲立つ出雲」「隠国の泊瀬」「青丹よし奈良」「石走る近江」等々。にもかかわらず、
「枕詞が地名の文字になった」例はほとんどない。「隠国」をハセとは読まず、「青丹」をナラとは読まない。実例らしきものはあるのは上の3つ(飛鳥・春日・大和)だけだ。
しかも、廣岡氏は
「絶えずアスカという地名に冠していることにより、「飛鳥」に「あすか」の訓が定着した」という。しかし、見てきたように、
「飛鳥」という地名表記も、「飛ぶ鳥の」という枕詞も、持統朝という近接した時期に生まれている可能性が高い。訓とはそんなに短期間に定着するものなのだろうか。それよりも、「飛鳥」という地名から、「飛ぶ鳥の」という枕詞を考えた、という方が自然ではないのか?
ところで、
新しい例として「日本」が出てきた。これについて考えねばならない。
廣岡氏は、
「(カ)については日本国号の成立問題が関わってくるが、そのことは今は横に置くとして、同様に枕詞の「被枕摂取」によって、「日本」を「やまと」と訓むことが可能となったわけである」とさらりと言う(前掲書398ページ)。
そこは大事なところなので、横に置かないでほしい。
「日本」国号が成立した時期については、689年施行の浄御原令からという説と、701年制定の大宝律令からという説がある。30年以上の中断を経て702年に遣唐使が派遣され、その時に「日本」という国号を名乗っている。
「倭」が「日本」になったことは、『古事記』に「倭」とある人名が『日本書紀』で「日本」となっている(ex.倭建命→日本武尊)ことから明確であり、
「日本」をヤマトと訓むことは、 『日本書紀』巻1第4段に「日本。此れ耶麻騰と云ふ。」と明示されている。
これほど発祥がはっきりしているのに、なぜ「日本」を「やまと」と訓むのに、枕詞の「被枕摂取」に拠らなければならないのか、理解に苦しむ。
しかも、
唯一の枕詞例「日の本の大和の国」(3-319)は高橋虫麻呂の歌であり、彼の生没年は不明だが、天平4年(732)の藤原宇合西海道節度使派遣の際に歌を作っていることからも、
「日の本の大和の国」は日本国号の成立後である可能性が高いのではないか。もちろん、この歌によって日本をヤマトと訓む「被枕摂取」が生まれたと限定する意見はないだろうが、他に例は見つかっていない。ならば、「日本」ができてから、それをもとに「日の本の」というが枕詞ができたと考える方が時代的にも自然な流れだと思うのだが。
ついでに言うと、「春日」の方も、記紀歌謡以外では万葉に1例(3-372)しかなく、それは山部赤人の歌である。赤人も活躍の中心は天平期である。赤人は記紀歌謡を知っていたのだろうか。あるいは「春日を」の枕詞も赤人が作ったのかもしれない。
疲れてきたので、(a)は次回に回す。