2011年9月26日月曜日

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2011年9月25日日曜日

「日下」問題その後(11)


 さて、いよいよ『古事記伝』とご対面した(筑摩書房『本居宣長全集』)。彼がどう言っているのか、まずはご高説を拝聴しよう。

(1)「日下」について

 実はこれにかなりの分量が割かれていて、ちょっと驚く。

 まず序文(「亦姓ノ日下ニ玖沙訶ト謂ヒ、名ノ帶ノ字ニ多羅斯ト謂フ、此ノ如之類、本ニ隨ヒテ改メズ」)について、「如此之類とは、まづは長谷春日飛鳥三枝などなり」とある。ここでは枕詞云々はない。また、すでに「三枝」が加わっている)。

 次に問題の神武記。神武が「浪速の渡」を越えて上陸した「日下の蓼津」について、

日下は、久佐訶と訓て地名なり。是は河内国河内郡なる日下にはあらざるべし、【河内郡なる日下は、古書に多く見えて名高し、其処の事は、下巻雄略段に云べし、又日下と書く文字のことなども彼処に云む、】其故は、難波海をば過て、なほ海路を幸行て、泊賜へる津なれば、必難波より南方にて、海邊なるべければなり。故思に、和名抄に、和泉国大鳥郡に日部【久佐倍】郷あり、式に同郡日部神社もあり、此郷今草部村と云り、是実は日下部にて、此の日下は是なるべし。

と、その場所を河内(生駒西麓)の日下ではなく、和泉の日部(くさべ)であるとしている。
 たぶん現在この説は取られていない。古代には河内の日下の近くまで海(河内湖)が迫っていたことが知られているからだ。これは考古学的な研究の成果で、宣長の知らなかった事実であるからやむをえないだろうが、当時の状況で「第二の日下」を挙げていることは慧眼と言っていいだろう。この、通説を鵜呑みにしない視点は見習いたいところだ。

 もちろん、この2つの日下は無関係ではない。また、「日部」を「くさべ」と呼ぶのは「日」を「くさ」と単独で読む証拠にはならない。そのあたりは宣長先生もちゃんと指摘している。

【下字を略て日部と書るは、凡て諸国郡郷の名、必二字に約て書例にて、大和の葛城上下郡を、葛上葛下、磯城上下郡を、城上城下と書と同じ、然るを和名抄に久佐倍とあるは、佐下に加字脱たるか、又今も草部と云を以見れば、和名抄のころより既く訛て久佐倍と云ならへるか、如何にまれ元は久佐加倍なるべし、日下と二字連ねてこそ久佐加とは読め、日字のみを久佐と読むべき由なし、春日を加須賀とよめばとて、春一字を加須とはよみ難きを思へ、

 そう取る方が普通のなのは分かる。ただ、足利氏の「「日」は「草」の略字説」だってあり得ないわけじゃない、と弁護したいところだが、宣長先生は続ける。

又姓氏録和泉国皇別に、日下部首、また日下部など云姓あり、是等も日子坐王の御末にて、河内国の日下部氏と元は一なり、【(略)】故思に、彼日下部氏の人等の分て、此和泉国大鳥郡にも住ける族の広ごるより、其処の名も日下とは云けむ、されば和泉なるも、元は彼河内の日下より出たる地名なるべし、

 それはまあ、そうだろう。このあたり、考証の詰め方が近現代の文献史家と変わらない気がする。

 さて、とにかくも「日下」の語源だ。雄略記の段を見てみよう。

日下は、河内国河内郡にて今も日下村あり、伊駒山の西方なり、【白橿原宮段に日下之蓼津、玉垣宮段に、日下の高津池などあるは、和泉国にて別なり、其由彼處々に云へるが如し】地名の義詳ならず、【今時暗がり峠と云を以て思へば、若くは暗坂と云こともやあらむ、師は低坂の比を省けるなり、と云れつれどいかゞ、】日下と書由も詳ならず、【こは波都世を、長谷、佐伎久佐を、三枝と書たぐひにて由あるべし、按に此地名暗坂の意にて、其を日下と書は、日の下れば暗きものなるを以てにや、なほよく考べし、師は低坂にてその比を日と書き、久を省き下ると云訓を借て坂を下ると書るにや、と云れつれど甚物遠し。され此地名書紀には草香と書れたり、凡て彼紀は地名などの字多くは旧きに依らずして新に改て書かれたり、古くは皆日下と書りしなり、】姓氏録日下部宿祢も此地より出たり、即ち河内国にも日下連日下部連などあり、さて御兄の大日下王、此の大后共に此地に住坐ちし故に御名に負給へるなり、

 さすがに宣長は架空の枕詞を考えてはいない。師(真淵)の「「低坂(ひくさか)の「ひ」が省略された」という説にも疑問を呈している。その上で潔く?「詳ならず」とし、「波都世を、長谷、佐伎久佐を、三枝と書たぐひ」とだけ書いている、これは序文の注記のくりかえしである。

(2)「長谷」について

 その「長谷」だが、こちらも雄略記の段で、次のように言う。

名義は未思得ず、【若くは此川大和の国の真中を流れたる其の初の瀬の意か、川上はなほ遠けれども国中にては此地ぞ上瀬なる、さて長谷と書ことは地のさまに因りてなるべし、さて此地名中昔より、波世とも云り、今世にはもはら、波世とのみいへり、】

 「はつせ」については「初の瀬」つまり(国中平野において)川の流れ始めだから、という推測をしているだけである。また「長谷」という表記については、「地のさま」つまり地形によるのだろうとする。ここでも、枕詞だとは言っていない。

 日下にせよ長谷にせよ、用字法の語源については追及を早々に諦めている。逆に資料があると、河内の日下か和泉の日下かについてはきちんと追及しようとする、そういう態度であることがうかがわれる。勝手に枕詞を作ったりはしないのである。
 しかし、枕詞が存在すると、とたんに強気になる。「春日」と「飛鳥」を見てみよう。

(3)「春日」について

 孝霊記の段では、「春日」についてこう注記する。

書紀開化巻に、春日此云箇酒鵞、継体巻勾大兄皇子御歌、播屡比能、[加+可]須我能倶[イ+爾]【武烈巻歌にも如此あり、上に引り、波流比能と云枕詞は、師の冠辞考に、春の日のかすむと云かけたるなるとあり、万葉九に、春日之霞時爾、とあるにて知べし、さて加須賀を春日と書ことは、云なれたる枕詞の字を、即その地名に用ひたるものなり、飛鳥の明日香云から、明日香をやがて飛鳥と書と同列なり、此事別に委く云り、】

 「云なれたる枕詞の字を、即その地名に用ひたるものなり」と言い、飛鳥と同じだとする。いわゆる通説である。開化紀と武烈紀の歌謡もきっちり紹介されている。赤人の歌は別に必要ないということか。

(4)「飛鳥」について

 いよいよ「飛鳥」である。履中記の段の「遠飛鳥」を見てみる。

さて此地名を飛鳥と書由は、書紀天武巻に、十五年改元曰朱鳥元年、仍名宮曰飛鳥浄御原宮、【此飛鳥は、トブトリノと訓べし、これをアスカと訓は非なり。其故は、朱鳥の祥瑞の出来るをめで賜ひて、年号をも然改め賜ひ、大宮の号にも、其朱鳥を取て、飛鳥の云々とは名け賜へるなり、あすかと云むは、本よりの地名なれば、殊更に仍名宮曰、など云べき由なしを思ふべし】とありて、大宮の号を、飛鳥云々と云から、其地名にも冠らせて、飛鳥の明日香と云、終に其枕詞の字を、即地名にも用いて書たる物にて、加須賀を春日と書例に同じ、【古き歌に、春日の、加須賀と云る、其は春日の霞むと云意のつゞけなるを、其枕詞の春日てふ字を、やがて地名に用いたるなり。明日香を、飛鳥とも書も、此の例なり、】かくて河内の明日香も、此倭のに傚ひて、同じく飛鳥とは書なり。

 まず、「飛鳥浄御原宮」の「飛鳥」は「トブトリノ」と読むべきだ、それはアスカはもともとの地名だから、それではことさらに(朱鳥によって)宮に名付けたという理由がない、と言う。
 次に、宮名を「飛鳥(とぶとりの)浄御原宮」と言ったので、地名も「飛鳥(とぶとりの)アスカ」と言うようになり(枕詞)、そこから「飛鳥」が地名表記になった。それは「春日」の例と同じである、と言うのである。


 さて、ではこれを受けてどう考えるかだが…。

 まず(1)日下(2)長谷については、特に異論はない。存在しない枕詞を作らないという点で同感である。
 (3)春日については、「はるひ」という枕詞と「春日」表記の時期の前後関係を推定する材料がないので反論がしにくいが、「春日の霞」から「カスガ」に「春日」の字を当てることは、枕詞を経なくても普通に思いつくのではないか、と主張しておく。
 (4)飛鳥については、「飛ぶ鳥の」の枕詞がこの朱鳥改元のさいに生まれたとし、そのあとに「飛鳥」表記が生まれたとするなら、「終に」というほどの時間があったとは思えないと、やはり主張したい。もちろん、宮名に「飛鳥」が使われた時点でこれが地名表記化し、そこから枕詞が生まれたとして何の不都合もないことも。

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 どうも、これ以上調べても何も出てこない気がしてきた。
 枕詞→地名はあっても地名→枕詞はない、という発想は、理屈ではない気がするからだ。

 前回考えた「日本」だが、吉田孝『日本の誕生』(岩波新書 1997)に興味深い記述があった。
 山上憶良が遣唐使からの帰国に際して詠んだ歌、

いざ子ども 早く日本へ 大伴の御津の浜松 待ち恋ひぬらむ (1-63)

の「日本」(現表記)を「高名な万葉学者の先輩」をはじめ広く「やまと」と訓まていること、特に「大和へ」と訓み下されてしまっている場合もあることを、著者は「もし憶良が知ったら、どんなに悲しむだろう」と嘆いている。
 吉田氏が言うように、この遣唐使が「日本」国号をはじめて名乗ったこと、その帰国に際して歌った歌であることを考えれば、ここは「日本」でなければならないはずだと私も思う。しかし、そうではない。吉田氏が例にあげた岩波古典文学大系本だけでなく、多くのテキストが「大和」に変えてあり、あるいは「ヤマト」と読ませている。一例、「ひのもと」という読みはあったが。

 吉田氏は、「「日本」の国号が「ひのもと」という語に由来するという、古くからある説」「「日本之 山跡国乃(ひのもとの やまとのくに)」という歌があり(巻三ー三一九)、「ひのもとの」という枕詞が先にあって、そこから「日本」という国名が生まれてきたという説」について、

 しかし、『万葉集』では、ヤマトにかかる枕詞としては「そら[に]みつ」「しきしまの」「あきづしま」が初期から用いられているのに対して、「ひのもとの」は前掲の奈良時代前半の歌のみである。「日の本の」は「日本」の国号が成立したのちに生まれた新しい枕詞とみられる。
(前掲書205ページ)

と批判する。

 私も同感である。前回も言ったが、この歌の作者と推定される高橋虫麻呂の活躍時期は奈良時代である。吉川弘文館『日本古代氏族人名辞典』には「天平四年(七三二)四月、藤原朝臣宇合が西海道節度使として派遣される時、その壮行を送った歌(『万葉集』六−九七一・九七二)を作っており、その前後に活躍した歌人と思われる。…歌によると虫麻呂は東国に赴いたことがあり、…この赴任を養老三年(七一九)宇合の下で、常陸の国庁へ出向いたものとみる説があり、そこで『常陸国風土記』編集のことにも携わったという。また一説に天平六年(七三四)以降の赴任であるともいう。…」とある。この歌が、大宝の遣唐使より以前、あるいは大宝律令の制定に先行する可能性はなく(浄御原令は言うまでもない)、「日本」国号が枕詞から生まれたとする根拠は、何もない。

 にもかかわらず、枕詞→地名表記を疑わない。

 「日本」を「やまと」としか読もうとしない発想も、これと同じ土壌から生まれているように思えてならないのだが、これは僻みだろうか?

2011年9月24日土曜日

「日下」関係その後(10)


 最後に、私と意見が近そうな(ある意味厄介な)、(a)本田義憲氏「万葉歌人と飛鳥」(井上光貞・門脇琴一編『古代を考える・飛鳥』吉川弘文館(1987)を読んでみた。

 本田氏はまず、万葉に「明日香」が多く、記紀に「飛鳥」が多いことなどが「『古事記伝』を承けて、「明日香」が古く、「飛鳥」はその枕詞「飛鳥」の文字から宛てた、と多く説かれる理由であろう」としつつも、「しかし、これは疑わしい。」と言う。
 まず「明日香」表記について、「確実には持続五年(六九一)の柿本人麻呂作歌(巻二、一九四、以下、この場合『万葉集』の名を省く)に初見すべきであって、おそらく詩人に飾られた、たんに音仮名でない意味性をもつであろう」と言う(これは例の「飛ぶ鳥の 明日香の川の 上つ瀬に 生ふる玉藻は…」の長歌のこと)。確かに「明日香」と「阿須迦」(『船首王後墓誌』)とではセンスが全然違う。では、なぜ「飛鳥」の方が古いと言えるのか。本田氏は言う。

人麻呂歌集の、写本の上の問題はありながら、要するに略体歌に表記「飛鳥川」がのこり(巻十二、二八五九)、このアスカに写本の上の異同はなく、かつ、確かに大和のアスカにちがいないことであった。略体歌のこの表記は、独創とまではいわず、また、天武九年前後とまではいわなくても、おそくとも朱鳥元年(六八六)以前かと見ることが可能であろう。とすれば、これは、赤い雉の瑞祥による(『扶桑略記』)のか、朱鳥と改元して宮号を「飛鳥浄御原宮」と定めたという(「朱鳥元年紀」)のに先行する。

 12-2859の歌とは、「明日香川高川避(たかがはよ)さし越ゑ来しをまこと今夜は明けずも行かぬか(飛鳥川  高川避紫  越来  信今夜  不明行哉)」で、このような表記形態を略体歌という。
 この論考の前半には、略体が人麻呂の歌の古い表記法であることが述べてられている。そのことが、この歌の作成時期の古さ、さらに「飛鳥」表記の古さの根拠となっている。
 このことがどのくらいの妥当性を持つのか門外漢の私には何とも言えないが、もちろん有力な反証もない。


私はこれまで、「飛鳥」表記にも枕詞「飛ぶ鳥の」にも、朱鳥を確実に遡るものがないことから、両者がほぼ同時期(朱鳥改元前後)に作られたのではないかと考え、時期が隣接していることから枕詞→表記ではなく表記→枕詞ではないか、それは枕詞一般のことではないかと考えているわけだが、「飛鳥」表記が朱鳥より古いものであったら不都合かというと、実はそうでもない。枕詞「飛ぶ鳥の」を考えたのは人麻呂だろうが、「飛鳥」表記を考えたのが持統と考えたのは飛鳥浄御原宮の命名からの単純な連想にすぎない。それよりも、アスカにおいて「飛鳥」表記が枕詞より古い可能性が高くなる方が、ありがたい

 それにしても、「日下」地名表記について考え始めてあちこち突き詰めてきたわけだが、「枕詞から地名表記になった」という「定説」が非常に脆弱で異論もあることが見えてきたのは予想外のことだった。おそらく「飛ぶ鳥のアスカ」が震源だろう。これがあまりに有名でまたキレイに決まっていることから、「春日」や「長谷」へ敷衍されていったのではないかと思う。それにしても「日本」や「日下」は拡大解釈に過ぎると思うが。

 ただ、これらは新しい説ではない。(a)の本田氏も挙げているように、『古事記伝』の影響は小さくないだろう。どうあっても宣長先生のご高説を直接読まなくてはいけない。次こそ『古事記伝』にあたってみたいと思う。

2011年9月18日日曜日

「日下」関係その後(9)


 前回、加藤千恵氏の論文「「飛鳥」の表記についてー地名と枕詞ー」を知り、そこから参考文献として、(a)本田義憲氏「万葉歌人と飛鳥」、(b)廣岡義隆氏「あかねさす紫野ー枕詞における被枕摂取と隔語修飾について」をマークしてみたのだが、もう一つ気になったのが(c)土橋寛『持統天皇と藤原不比等』(中公新書、1994)である。
 加藤氏は「「飛鳥」の表記に「アスカ」の音があてはまる何らかの理由があるはずである。現在残る資料の範囲で考えられるのは、枕詞「飛ぶ鳥の」である」とし、土橋氏の『持統天皇と〜』から、

 アスカという地名の語源は不明と言わざるをえないが、それを「飛鳥」と表記する理由は、前日のように天武朝にこの表記が出現し、持統朝には定着していること、そして「飛鳥(とぶとりの)明日香の里」という表現も持統朝に出現し、その作者が柿本人麻呂と持統天皇であること(後述)を考慮すると、歴史的必然性のある文字であると考えざるをえない。

という箇所を引用しておられる。

 実際に(c)にあたってみたのだが、まず「飛鳥」表記が天武朝に出現したことの証拠として、前に触れた「小野朝臣毛人墓誌」と、「銅版法華説相図説」が引用されている。どちらにも「飛鳥浄御原宮治天下天皇」(後者は「大宮」)」という表現があるからだ。
 「小野朝臣毛人墓誌」が、彼の没したという天武6年に書かれたものではなく、後世に作られて墓に収められたものと考えられることは前にのべた
 「銅版(ママ:「銅板」の誤植か)法華説相図説」は長谷寺に伝来するもので、同じ銘文に刻まれた「歳次降婁漆菟上旬」(歳は降婁(こふる)に次(やど)る漆兎(しっと)上旬」と訓読される)は戊年七月上旬を指すという。土橋氏はこの戊年を686年(朱鳥元年)としているのだが、実はこれには698年(持統も「飛鳥浄御原大宮治天下天皇」と呼ばれ得る)説や710年説があって定説ではないので、根拠としては弱い。
 思うのだが、そもそも、朱鳥改元によって「飛鳥浄御原宮」と宮名をつけたという書紀の記載を信じるなら、「飛鳥浄御原大宮治天下天皇」という表記はそれ以降にしか現れるはずがない。朱鳥改元以前に「飛鳥」表記が存在したというなら、それは「飛鳥浄御原宮」以外の用例しか証拠にならないはずだ。「降婁」が686年だというならば、むしろ銘文の「上旬」か書紀の「二十日」が誤りではないのかと疑うのが順序で、書紀の記載のうち朱鳥改元は採用して宮名を名付けた記事は疑うというのはどうだろうか。
 また後者の銘文には「聖帝超金輪同逸多」とあり、これが則天武后の尊号(聖神皇帝)を受けるとの指摘から、この年号を銅板の実作年とせず、武周革命以後のある程度の幅を持って年代を捉えるという見解(田中健一氏「長谷寺銅板法華説相図の図様及び銘文に関する考察」)も、興味深いところだ。

 次に、土橋氏は万葉の「飛ぶ鳥のアスカ」の4首をあげて、どれか最も古いかが問題だとする。4首とはもちろん、

A「飛ぶ鳥の 明日香の里を 置きて去なば 君があたりは 見えずかもあらむ」(1-78)
B「飛ぶ鳥の 明日香の川の 上つ瀬に 生ふる玉藻は…」人麻呂(2-194)
C「飛ぶ鳥の 明日香の川の 上つ瀬に 石橋渡し…」人麻呂(2-196)
D「飛ぶ鳥 飛鳥壮士(おとこ)が …」(16-3791)

である。ここで氏はAだけを詳しく取り上げ、この歌は「一書には太上天皇の御製」とあるように持統の歌(飛鳥から藤原京への遷都の際の歌)であり、詞書に和同3年(710)に藤原京から平城京へ遷都する時に元明が歌ったものというのは、この持統の歌を元明がその時に「誦詠」したものだとする。
 なるほど、と思う。遷都に際してアスカを偲ぶのならば平城遷都より藤原遷都の方が切実だろうし、元明が「誦詠」したのだとすると、詞書にある長屋などの地名も矛盾なく説明できる。藤原遷都は694年だから朱鳥改元(686)よりも後であるから、問題ない。
 ただ、土橋氏は「どれか最も古いか」と問題設定しておきながら、Aしか説明しない。読者はAが一番古いのだと思ってしまうが、実はB(2-194)は河島皇子(691没)の殯宮の時に柿本朝臣人麻呂が泊瀬部皇女に献じた挽歌なので、こちらの方が(藤原遷都より)古いことになるのだが、そこは放置である(B・Cは紹介したところで年代を注記してあるのでまだ良いが、Dには何の解説もない)。また、「「飛鳥(とぶとりの)明日香の里」という表現も持統朝に出現し、その作者が柿本人麻呂と持統天皇である」と主張しているが、厳密には「飛ぶ鳥の明日香の里」という歌はAしかない。上記のように人麻呂作のB・Cは「明日香の川」であるから、「その作者が柿本人麻呂と持統天皇である」は間違っている。しかも実はB〜Dは歌本文は紹介していないので、読者はA〜Dまですべて「明日香の里」だと誤解してしまう。意図的なミスリードではないだろうが、どうもこの本はこういうところが荒く、文章も読み取りにくいので困る。

 結論としては、土橋氏は「飛鳥」表記を天武朝に出現したとしているが、金石文の時代設定に厳密さを欠き、その「天武朝」とは朱鳥元年以後しか含めない。これは、事実上持統朝からと言ってよいだろう。ただ、『万葉』1-78を持統の作歌とする見解は納得できる。

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 次に、(b)廣岡義隆氏「あかねさす紫野ー枕詞における被枕摂取と隔語修飾について」(1994)を拝読した。

 廣岡氏の造語という「被枕摂取」とは、「枕詞が特定の被枕に絶えず冠している(修飾している)ことから、次の段階としてその被枕を枕詞内に取り込んでしまう現象」(塙書房『上代言語動態論』2005、396ページ)のことである。
 例えば「ぬばたまの月」という表現がある(17ー3988)。これは「ぬばたの」という枕詞が「夜」に冠することから、「ぬばたま」の中に「夜」が取り込まれてしまっていて、「ぬばたまの月」→「夜の月」となるのであって、闇夜ではない(詞書によればこの日のほぼ満月)というようなことである。

 ここまでは、なるほどと首肯できるところである。そういえば枕詞「あしびきの」はほとんどが「山」にかかるが、「あしびきの岩」(3-414)という表現もあり、これは「山の岩」になる、という類だろう。
 ところが、ここで廣岡氏は急に地名に掛かる枕詞に話を転じる。

 (エ)飛鳥(とぶとりの) 明日香能里(あすかのさと) (1・七八、元明天皇)
 (オ)春日乎(はるひを) 春日山(かすがのやま) (3・三七二、山部赤人)
 (カ)日本之(ひのもとの) 山跡國(やまとのくに) (3・三一九、高橋虫麻呂)
 これらの地名に掛ける枕詞においても同様のことが言えるのである。なぜ「飛鳥」と書いて「あすか」と読むことができるのか。このことは枕詞の「被枕摂取」でないと説明ができない。枕詞「とぶとりの」がなぜアスカといふ地名に掛かるのかは、諸説こそあるが、今となっては分からないことである。しかしながら、絶えずアスカという地名に冠していることにより、「飛鳥」に「あすか」の訓が定着した。一種の「被枕摂取」なのである。
(前掲書397〜398ページ)

 そうだろうか。
 「被枕摂取」という現象は否定できない。しかし、それは枕詞が被枕の意味を取り込んでしまうということであり、枕詞の音が被枕の音に変わってしまうということは同じとは思えない。

 「飛ぶ鳥の」という枕詞が「アスカ」という地名を意味として取り込んでしまうことはわかる。「飛ぶ鳥の宮」という表記がもしあれば、それはアスカにあった宮のことを指すのだろう。「飛ぶ鳥の水」というミネラルウオーターができるかもしれない。しかし、それと「飛鳥」を「アスカ」と読むこととは違うだろう。「足引」と書いて「ヤマ」とは読まないし、「烏玉」と書いて「よる」とは読まないし、「垂乳根」と書いて「はは」とは読まないではないか。
 また、地名に枕詞がつく例は多い。「八雲立つ出雲」「隠国の泊瀬」「青丹よし奈良」「石走る近江」等々。にもかかわらず、「枕詞が地名の文字になった」例はほとんどない。「隠国」をハセとは読まず、「青丹」をナラとは読まない。実例らしきものはあるのは上の3つ(飛鳥・春日・大和)だけだ。
 しかも、廣岡氏は「絶えずアスカという地名に冠していることにより、「飛鳥」に「あすか」の訓が定着した」という。しかし、見てきたように、「飛鳥」という地名表記も、「飛ぶ鳥の」という枕詞も、持統朝という近接した時期に生まれている可能性が高い。訓とはそんなに短期間に定着するものなのだろうか。それよりも、「飛鳥」という地名から、「飛ぶ鳥の」という枕詞を考えた、という方が自然ではないのか?

 ところで、新しい例として「日本」が出てきた。これについて考えねばならない。
 廣岡氏は、「(カ)については日本国号の成立問題が関わってくるが、そのことは今は横に置くとして、同様に枕詞の「被枕摂取」によって、「日本」を「やまと」と訓むことが可能となったわけである」とさらりと言う(前掲書398ページ)。

 そこは大事なところなので、横に置かないでほしい。
 「日本」国号が成立した時期については、689年施行の浄御原令からという説と、701年制定の大宝律令からという説がある。30年以上の中断を経て702年に遣唐使が派遣され、その時に「日本」という国号を名乗っている。
 「倭」が「日本」になったことは、『古事記』に「倭」とある人名が『日本書紀』で「日本」となっている(ex.倭建命→日本武尊)ことから明確であり、「日本」をヤマトと訓むことは、 『日本書紀』巻1第4段に「日本。此れ耶麻騰と云ふ。」と明示されている。これほど発祥がはっきりしているのに、なぜ「日本」を「やまと」と訓むのに、枕詞の「被枕摂取」に拠らなければならないのか、理解に苦しむ。
 しかも、唯一の枕詞例「日の本の大和の国」(3-319)は高橋虫麻呂の歌であり、彼の生没年は不明だが、天平4年(732)の藤原宇合西海道節度使派遣の際に歌を作っていることからも、「日の本の大和の国」は日本国号の成立後である可能性が高いのではないか。もちろん、この歌によって日本をヤマトと訓む「被枕摂取」が生まれたと限定する意見はないだろうが、他に例は見つかっていない。ならば、「日本」ができてから、それをもとに「日の本の」というが枕詞ができたと考える方が時代的にも自然な流れだと思うのだが。

 ついでに言うと、「春日」の方も、記紀歌謡以外では万葉に1例(3-372)しかなく、それは山部赤人の歌である。赤人も活躍の中心は天平期である。赤人は記紀歌謡を知っていたのだろうか。あるいは「春日を」の枕詞も赤人が作ったのかもしれない。

 疲れてきたので、(a)は次回に回す。

2011年9月17日土曜日

「日下」問題その後(8)


 先行研究がありました…。やっぱりね。
 うーん、見つけてしまったものは仕方ない。

 ネットで色々と情報を検索していて、三重大学の加藤千恵さんという方が書かれた、「「飛鳥」の表記についてー地名と枕詞ー」という論文を見つけた。所収は、三重大学の紀要『三重大学日本語学文学』13号(2002年)。ネット上に公開されている(http://hdl.handle.net/10076/6589)。なお、著者の加藤千恵さんという方については、2002年3月に三重大の大学院を修了されたということしか分からない。ネットとは便利なのか恐ろしいのか…。

 この論文で、加藤氏は、朱鳥改元にともなって「飛鳥浄御原宮」と名付けたという書紀の例の記事から、この「飛鳥」は(契沖や宣長を支持して)「トブトリ」ではないかと想定する。また、「飛鳥」という地名の用例を記紀万葉から金石文まで検討されて、「飛鳥」という表記が朱鳥より以前に確実に遡れる事例はないことを示し、さらに「鳥」が天武朝の瑞祥のイメージによるものであることなどから、「持統天皇が夫天武天皇の病気平癒の祈りを込めて「朱鳥」と改元し、それにちなんで名付けられた「トブトリノキヨミハラノミヤ」という宮号によって柿本人麻呂が枕詞「飛ぶ鳥の」を成立させたと考えられる」(前掲論文22ページ)とする。

 私が考えた流れに近い。

 また、考証過程の中で、『万葉』3791の竹取の翁の歌序中に『遊仙窟』の影響が見られること、小野朝臣毛人の墓志が刻まれたのは彼の死後すぐではない(天武朝以前である可能性は低い)ことなど、私がこれまで調べてきたことが、すでに述べられていた。

 一方で、「枕詞と地名表記のどちらが先にあったのかという事に関する文献は残らない。」としつつも、廣岡義隆氏の「被枕摂取」論を紹介して、「枕詞「飛ぶ鳥の」が必ず地名「アスカ」を修飾するという関係によって、漢字表記「飛鳥」に地名の訓みである「アスカ」が定着していった」としており、あくまでも枕詞→地名という部分は定説を守っている。

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 というわけで、今回の私の「考察」は、ほとんど独自性がないことが分かった。
 まあいいか、論文じゃないし。もし卒論だったら号泣だな(^^;

 でも、おかげで参考文献が新たに見つかった。

(a)本田義憲氏「万葉歌人と飛鳥」(井上光貞・門脇琴一編『古代を考える・飛鳥』吉川弘文館(1987)

 本田氏は、「飛鳥」表記が枕詞「飛ぶ鳥の」に先行したと言及している、とのこと。これは読んでみたい。
 これなら近所の図書館にもあるみたいだし。

(b)廣岡義隆氏「あかねさす紫野ー枕詞における被枕摂取と隔語修飾について」(『蒲生野』第26号、1994年)

 廣岡氏は、被枕摂取(氏の造語)=枕詞が特定の被枕詞を修飾するうちに被枕詞が枕詞自体に取り込まれていく現象について述べているとのこと。
 強敵っぽい。それに雑誌がマイナーで見つからないが、この人の最近の論集らしい『上代言語動態論』(2005)に収められているらしい。


 ポイントは、枕詞→地名の是非に絞られてきたようだ。

2011年9月12日月曜日

「日下」問題その後(7)


「飛鳥」について補足。

(A)

 前回は「時期が特定しづらい」としたままだった、

「飛ぶ鳥 飛鳥壮士(おとこ)が …」(16-3791)

についてだが、沢瀉久孝『萬葉集注釋』(巻16)によれば、その詞書の

「偶逢神仙、迷惑之心無敢所禁」(たまたま神仙に逢へり、迷惑の心敢へて禁ふる所無し)

『遊仙窟』の「忽遇神仙、不勝迷亂」を出典とするとしている。またこの歌に答えた歌にも『遊仙窟』の影響があるという(16-3795の「無事」)。

 『遊仙窟』は唐代の伝奇小説で、日本に伝来したのは8世紀初頭とされている(小学館『日本国語大辞典』)から、朱鳥元年(686)に日本にあったとは思えず、その影響を受けているこの歌の「飛ぶ鳥の」は、より新しい時期のものでると見て良いだろう。つまり、「飛鳥(あすか)」の古い例にはらなない。


(B)

 また、人麻呂が689年に「飛ぶ鳥の 清御原の宮に 神ながら 太敷きまして」(2-167)という歌を詠んでいることを紹介したが、類似の歌があった。
 持統7年(695)に行われた天武の御斎会での(たぶん持統の)御歌で、

「明日香能 清御原乃宮尓」(2-162)

とあるので、こちらは「アスカ」で間違いない。
 これをどう考えるかだが、人麻呂(2-167:689年)が「トブトリ」で持統(2-162:695年)が「アスカ」なら、浄御原につく修辞が「飛ぶ鳥の」から「明日香の」に変わったと見ることもできる。人麻呂も「アスカ」なら、変わっていないだけなのだが。

 なお、この人麻呂の「飛鳥の」について、同じく『萬葉集注釋』が、

「飛鳥」を諸本諸注に多くアスカと訓んでゐるが、紀州本にトブトリとあり、それが古訓と思はれ、玉の小琴にトブトリとあるが正しい。地の「あすか」に飛鳥の文字を宛てる事は枕詞から轉じたものでまだこの天武の御代にはない。天武六年に死んだ小野朝臣毛人の墓志に「飛鳥淨御原宮云々」とあってアスカに飛鳥と書かれたやうに見えるが、その墓志はその時に書かれたものとは認め難く

としているのは興味深い。
 まず、「玉の小琴」ということは宣長先生も同意見ということで、心強い(^^;
 また、金石文の中で小野朝臣毛人の墓志に「飛鳥淨御原宮云々」とあることが分かった。しかも「その墓志はその時に書かれたものとは認め難」いということなので、確認してみることにする。
(ただし、この歌は草壁の挽歌であるから明らかに「天武の御代」ではなく、また例の朱鳥改元を越えているので、沢瀉氏の説は解せない。少なくとも私の立場とは異なっている)。

(C)

 小野朝臣毛人は例の小野妹子の子で、その墓誌が慶長18(1613)年に崇道神社(現在の京都市左京区上高野)裏山の石室から見つかっている。

 写真と解説が、奈良文化財研究所のサイトにあるので、そこから引用してみる。

石室に納められていた墓誌は、長さ58.9cm、幅6.0cmの短冊形をしている。鋳銅製で鍍金され、毛人が天武天皇の代に太政官と刑部大卿を兼任、「丁丑年」677年(天武6)に墓が造られ葬られたことを48字で簡潔に記す。小野氏が「朝臣」姓に改められるのが、684年(天武13)であること、「大錦上」の位は死後贈られたと考えられることなどから、墓誌は墓より後に作られ、持統朝以降に追納されたと考えられている。冒頭に、天武天皇を「飛鳥浄御原宮治天下天皇」と表現する。

 つまりこの墓誌には「丁丑年(677)」の年紀はあるが、「朝臣」姓を使っていることから作られたのが早くとも684年であることは間違いない。また彼の没時の最高冠位は「小錦中」であったことは、のちの記録(『続日本紀』和銅7年(714)4月15日条の小野朝臣毛野(毛人の子)の薨伝)に明記されている。大錦上は小錦中より4階も上で、死後の追贈ということになる。
 なぜ「持統朝以降」なのかは分からないが、仮に最古の684年としても朱鳥改元のわずか2年前であり、「飛鳥」が朱鳥以前にはなかった可能性は依然高い。


***

 うーん、飛鳥のことばかりになってしまう

 というのも、「日下」については、すでに諸氏(沢瀉久孝→西宮一民→谷川健一)とも「日の下のクサカ」なる枕詞的修辞句があったのではないかと推定しているだけで、実例は一つも見つかっていない。実例がないのだからその説は無理ではないかというのが私見だから、おそらく双方に歩み寄りの余地が無い。その意味では話は終わっている。

 そこで他の「枕詞が地名に転化した例」の検討を始めたわけだが、確実というか定説と思っていた「飛鳥」ですら、どうも雲行きが怪しい。「春日」は辛うじて古例があるが、「長谷」も実例はないことが分かった。
 してみると、疑うべきは、もはや「日下が枕詞から来ている説」ではなく、「枕詞が地名表記に転化する」ということそのものではないか、と感じ出している。

 これはそれこそ大変なことで、宣長以前も含めて近現代に至る国文学研究の歴史を大々的に否定することになるので、さすがに思いつきが過ぎる気もする。
 しかしどうだろう。あり得なくはない気もするのだ。

 「飛ぶ鳥の」が枕詞として「アスカ」にかかる理由は定かではない。
 ならば、「アスカ」が同じく定かでない理由で「飛鳥」の字を当てられ、その後に地名から枕詞が生まれたとして、何もおかしくはない。見てきたように「飛ぶ鳥の」という枕詞の実例と「飛鳥」という地名表記の実例は時期が近接している。地名から枕詞を作るのならともかく、枕詞が地名表記に転化するのに、ほんの数年でいいのだろうか?
 実例が残っていないだけで古くから「飛ぶ鳥の」という枕詞があったというのは、都合が良すぎないか?
 「春日」も同じだ。春の日は霞むからカスガに「春日」をあてるという思考に、わざわざ枕詞を介在させるの必要があるだろうか?そして、先に「春日(かすが)」という地名表記が生まれて、そこから「春日の」という枕詞が生まれた可能性を否定できまい。
 枕詞の実例がない「長谷」は言うまでもない。泊瀬の地が「長い谷」だからというなら、それで地名の当て字にしたという話で十分だ。なぜ見つかってもいない枕詞を想定しないといけないのか理解に苦しむ。
 読み方の根拠のわかりにくい地名は他にもある。「斑鳩(いかるが)」「太秦(うずまさ)」「百済(くだら)」「依羅(よさみ)」「刑部(おさかべ)」などなど。これらについても、それこそ適当に「枕詞的な修辞句」を作ってもいいのだろうか。こういった例と、(「飛鳥」や「春日」はともかく)「長谷」や「日下」は何が違うのか、よく分からないのだ。

 うん。国文学の常識に挑戦してみようか。

2011年9月11日日曜日

「日下」問題その後(6)


(2)飛鳥について

 以前にも書いたように、「枕詞が地名になる」例として、最も人口に膾炙しているのが、この「飛ぶ鳥のアスカ」だろう。
 だが、改めて調べてみたところ、疑問が浮かんできた。

「飛ぶ鳥の 明日香の里を 置きて去なば 君があたりは 見えずかもあらむ」元明(1-78:和銅3年)
「飛ぶ鳥の 明日香の川の 上つ瀬に 生ふる玉藻は…」人麻呂(2-194:川島皇子の葬にて?朱鳥5年?)
「飛ぶ鳥の 明日香の川の 上つ瀬に 石橋渡し…」人麻呂(2-196:明日香皇女の殯宮)
「飛ぶ鳥 飛鳥壮士(おとこ)が …」(16-3791)

 まず、意外と数が少ないこと。
 最後の歌は竹取翁伝承を題材にした歌なので時期が特定しづらいが、あとの3首は特徴がある。
 まず、時期が新しく集中していること。次に、遷都・殯宮という政治的な場面の歌であることだ。

 1-78は和同3年(710)に藤原京から平城京へ遷都する時(「従藤原宮遷于寧樂宮時御輿停長屋原廻望古郷作歌」)の歌で、一書によれば元明天皇の作であるという。
 2-194は河島皇子(691没)の殯宮の時に柿本朝臣人麻呂が泊瀬部皇女に献じた挽歌。
 2-196は明日香皇女(700没)の殯宮の時に柿本朝臣人麻呂が献じた挽歌である。

 このことと、前回は私の不勉強で理解できていなかった、飛鳥浄御原宮の命名に関する『日本書紀』の記事には関係がありそうだ。

「改元して朱鳥元年と曰ふ〈朱鳥、此れ阿訶美苔利と云ふ〉。仍って宮を名づけて飛鳥浄御原宮と曰ふ。」(686年7月20日)

 この記事の読み方は難しいが、天武末年(まもなく病没する)に「朱鳥」と改元した際、「仍って」宮の名を「飛鳥浄御原宮」と名付けたというのであるから、「飛鳥浄御原宮」と「朱鳥」に関連があるはずで、それはおそらく共通している「鳥」であろう。
 つまり、元号「朱鳥」に変えたので関連のある「飛鳥」のつく宮名に変えたわけで、遅くともここで「飛鳥」=「あすか」と呼ぶ言い方が生まれたことになる。
 では、これが以前からあった「飛鳥(あすか)」を宮名につけただけなのか、あるいはもしかしてこの時に「飛鳥(あすか)」が出来たのか。

 そこでさっきの万葉の例を見てみると、3首ともこの朱鳥元年(686)より後世の歌になっていることに気づく。
(もちろん、現在見る万葉集の表記がいつそうなったのかは分からないが、詠まれた時期より新しくなっても古くはならない。)
 してみると、「飛ぶ鳥の」を「あすか」に結びつけた=枕詞を作ったのは、実はこの時(あるいは持統個人)ではないのか、という気がしてくる。

 もちろんこれ以前にも、記紀には「飛鳥」という表記が多数あるが、編纂時にこの表記にそろえられた可能性も十分にある。
 そもそも、飛鳥には河内飛鳥と大和飛鳥があり、その両方に「飛鳥」の字が用いられていることも不自然と言えば不自然。
 河内の方には「安宿」という表記があるにもかかわらず、だ。

 また、なぜ「飛ぶ鳥の」が「あすか」にかかるのかは、「春日」ほど定説を見ていない。そこに人為的なものを考えてみたくもなる。

 また、二つの飛鳥に勢力を張っていたのは蘇我氏である。
 「飛鳥」寺は、蘇我氏の氏寺である。
 持統は、母が蘇我氏であり、また持統の子である草壁皇子の嶋宮がもと蘇我馬子の邸宅であったように、蘇我氏との結びつきの強かった人物でもある。
 傍証の傍証でしかないが、朱鳥改元とともに「飛鳥(あすか)」を考えたのは彼女ではないか。
 そのためあまり親しまれず、人麻呂など公的な歌でしか用例がないのではないか、と。

 もしかすると、「飛鳥浄御原宮」は「とぶとりのきよみはらのみや」だったかもしれない。
 その方が、より「朱鳥(あかみとり)」と直接に結びつくし、実は、人麻呂が草壁皇子(689年没)の殯宮の時に献じた挽歌に、

「飛ぶ鳥の 清御原の宮に 神ながら 太敷きまして」(2-167)

というのもあるからだ(もっとも、現表記は「飛鳥之」なので「あすかの」かもしれないが)。
 だとすると、アスカにあった浄御原宮に「飛ぶ鳥」が使われたので、そこから枕詞が生まれ、表記も自然と「飛鳥」になったのかもしれない。金石文や木簡などを検討していないので、あくまで思いつきであるが。
(木簡データベースで「飛鳥」をざっと探したところ、飛鳥池遺跡から何例が出土しているが、年紀が分からない)
 人麻呂の2-167歌や書紀の宮名設定の記事からは、そう読むほうが素直にも思える。

−−−−−
…という大胆すぎる意見になってしまった。

 「日下」とは直接関係ないのだが、有名な「飛ぶ鳥のアスカ」がかなり新しく政治的なものである可能性があるのは確か。
 そう簡単に枕詞の漢字が地名に転化しないのではないか、という気がしてきた。
 「長谷」は実例がないし。
 春日や長谷や飛鳥ほどの重要性があったとは思えない「日下」が、結びつく枕詞があって、それが地名に転化して、しかも古事記編纂時期には由来が忘れ去られている、というのが、少なくとも実感として腑に落ちないのだ。


 他の地名については、これ以上は話題が出てきそうにない。
 「日下」に戻って調べてみたい。
 さしあたり、『古事記伝』を読んで、本居宣長の言い分を読んでみようと思う。ここまで色々調べてきて、時々『古事記伝』が引用されているのだが、ほんの少しだけの引用で全体像が分からないので。

2011年9月3日土曜日

「日下」問題その後(5)

 前回「長谷・飛鳥についても疑義が残る」と書いた。そのことから始めたい。
 なにしろ、枕詞的修辞句説の根拠は、長谷や飛鳥の例があることなのだから無関係ではないし、地名としてもこちらの方がメジャーだ。

(1)長谷について

(略)允恭記の「許母理久能(こもりくの) 泊瀬(はつせ)の山の」を始めとして、万葉では「隠国乃(こもりくの) 泊瀬の川に」(巻一、七九)とあるのが、表意文字としてのコモリクノを考えさせてくれよう。要するにハツセの地勢が、谷間にあって、山にかこまれてゐるから隠れる処、隠れる国、の意で枕詞になった、という説は肯定できる。
 そして地名ハツセは、「泊つる瀬」の意味で、上代の交通が川に沿って(川を横断する交通は先ず無い)行われたもので大阪湾から大和川を遡り、その上流初瀬川に至って、そこを舟つき場とした《「舟瀬」(万葉巻六、九三五)も同義》ことから、ハツセの地名が生じたと言われているのも正しかろう。
かつ「長谷」をハツセと訓み、ハツセを「長谷」とも書くのは、その地溪谷をなしていて、その地形よりナガタニと言い、恰も「長谷(ながたに)の泊瀬」という枕詞のような表現が、遂に長谷と書いてハツセと訓むに至った、という沢瀉久孝博士(『万葉集注釈』巻一)説に従うべきである。
(西宮氏「地名にかかる枕詞及びその地名」)

 これが西宮氏の説明の主要部である。
 また元になる説が別にあった。今度は沢瀉久孝である。『万葉集注釈』である。超定番ではないか。

 ならば確かめよう。『萬葉集注釋』巻1(昭和32年:中央公論)から引用する。

「泊瀨」はまた「始瀨」「長谷」とも書く。今は初瀨と書く。奈良県磯城郡初瀨(はせ)町は長谷(はせ)観音の所在地として知られてゐるが、萬葉時代の泊瀨は今の初瀨の西、舊朝倉村(櫻井市東部)のあたりをさしたものと思はれる。ハツセは「泊つる瀨」の意味で、上代の交通が川に添うて行はれ、大阪灣から大和川を遡り、その上流初瀨川に至ったので、そこを舟つき場といふ意味で名づけられたものかと考へる。「舟瀨(フナセ)」(6・935)といふ言葉もあるが、これも舟着き場の意味である。長谷と書くのはこの地溪谷をなしてをり、その地形によりナガタニといひ、「長谷(ながたに)の泊瀨(はつせ)」とハツセの枕詞のやうに用ゐられたのが、「飛鳥(とぶとり)の明日香(あすか)」「春日(はるひ)の滓鹿(かすが)」が「飛鳥(あすか)」「春日(かすが)」となったと同じやうに「長谷」をハツセともハセとも訓むに至ったものと思はれる
(前掲書10〜11頁)
(ともに下線はスズメ♂による)

 はい。これですね。分かりました。引用文献を書いてくれると話は早い。
 西宮氏の「長谷」についての解釈は、沢瀉氏の説そのままと言っていい(文言までほとんど同じである)。我が「相手」は、谷川健一→西宮一民→沢瀉久孝と、どんどんディープになってきた(笑)。

 また、これまで出典不明でチラチラと出てきていた「春日の滓鹿」がここに出ていることからも、また文の具合からも、長谷の語源を飛鳥や春日と同じであると推定する論法も、沢瀉氏が大元だったようだ

 さて、万葉研究の大権威である沢瀉氏だからと言って追及を諦めるわけではないぞっと。
 「長谷(はせ)」という地名は全国各地にかなりある。「長谷の泊瀬」からハセになったのなら、それと関係のない「長谷」はどう説明するのだろうか。鎌倉の長谷のように、奈良の長谷寺との関係が明らかな場合はともかく、だ。「ながたに」と読む地名もある。長谷部の居住から全部説明がつくのかどうか。
 それに、「泊瀬」を「ハセ」と読むのは聞いたことがあるが、「長谷」を「ハツセ」と読むのかも疑わしい。

 ついでに、「春日の滓鹿」という表記は本当にあるのだろうか。もし説明のために「ありそう」ということだけで「作った」のなら、高名な学者であるからこそ罪深いことだと言いたい。明らかにこの語は一人歩きをしている。

 飛鳥についてはまた後日。

「日下」問題その後(4)


 中之島図書館で、ようやく『地名学研究』の西宮氏の論文を見ることができた
「地名にかかる枕詞及びその地名」(『地名学研究』第十・十一合併号/日本地名学研究所/昭和34年9月)。

 ところで、前回の大阪市立中央図書館といい、今回の中之島図書館といい、地下鉄の駅からほど近く非常に便利である。前述のような恵まれた学生たちには及ばないが、それでも仕事帰りに寄れる範囲で、こうした資料を確認できることは有難いことである。

 さて、私が生まれる前のこの論文にたどり着いたわけだが、西宮氏は「日下」について、「枕詞的な修飾句があったのだろう。それがやがて、「日下」と書くだけで、地名クサカを表すようになったのであろう」と述べており、私が前回、谷川氏の引用から推測した通りであった。

 ただ、実はこの論文が最初ではなかった。氏は次のように言う。

 それ(宣長ら先行研究:引用者注)に対し、私は郷土史『ひらおか』5号に「日下と記紀万葉−日下の文字と名義−」と題して、その地勢<太陽をヌキにしては枚岡市日下町地方の印象は語れないと思うのは私一人ではなく、古代人も、神武天皇の孔舎衛坂の合戦の時にも、「今我は是れ日神の子孫、而るに日に向かいて虜を征するは此れ天道に逆らふなり」(神武記)、また雄略天皇の若日下部王をつつまどう時にも「日に背きて幸行の事、甚だ恐ろし」(雄略記)(※原論文は漢文表記のまま。書き下しは引用者、次も同じ)などと、太陽を中心にして、而もそれに対する信仰的な説話を残している点>から、「日の下のクサカ」といった枕詞的な修飾句があったのだろう。それがやがて、「日下」と書くだけで、地名クサカを表すようになったのであろうという旨を発表した(昭和三十四年三月)。詳しくはそれは拠られたい。
(前掲書35頁)

 あらあら、まだ前があったのかと思ったが、幸いここは中之島図書館。当該の『ひらおか』は昭和34年という古いものだが、大阪府関連だしここならあるかも、と調べてみたらあった。本当にここは便利だ。

 『ひらおか』は河内郷土研究会発行の雑誌で、西宮氏の「日下と記紀万葉」は5〜7号の3号に渉って連載されていた。
 確認してみたが、さすがに先の論文と時期も近接しており、書かれている内容に大差はなかった。
 しかし、全く収穫がなかったわけではない。次の5点は、『ひらおか』の方にのみ書かれていた。

・本居宣長が日下地名について、「これは波都世を長谷と書き、佐伎久佐を三伎と書く類だろう」と述べている。
「春日の滓鹿」という表現を使っている。(出典は不明)
・「長谷」について、日下だけでなく長谷も「文献の確証は無い」と明言している。
「長谷の場合は、「隠国の」なる枕詞がその位置を冒したのだろう」という見解を示している。
(以上は『ひらおか』5号)
・日下について、「この推定は本会顧問の田中卓氏もすでに「風土記研究会」(第十九回例会記録)<昭和31年6月21日>に、或いは「滓鹿の春日」といふやうに「日下のクサカ」という云い方があったのだろうか。と述べて居られるのは、簡潔ながら正鵠を得たものであり、拙稿は正しく、氏の論を敷衍した結果になったことをお断りしておく。」と述べている。
(以上は『ひらおか』6号)

 「風土記研究会」まで確認する必要性はなさそうだが、宣長のあげる「三伎」については確認してみたい。

 結局、目立った新しいデータは見つからなかった。 「太陽をヌキにしては枚岡市日下町地方の印象は語れない」という「印象」と、飛鳥・春日の事例から、「日の下の」という枕詞的な修飾句が「あったのだろう」と推測しているだけである。

※※※

 ところで西宮氏は、上記「地名にかかる〜」論文の冒頭近くで、「私の日頃地名に関して考えていることをかいつまんで述べておく」として、いくつかの留意事項をあげている。いま、その最初の2項をそのまま引用してみる。

(一) 地名と地名説話との関係。記紀風土記に見える地名説話は、すべて附会(ただしただし歴史的に、居住部族が証明できる場合を除く)と認めてよいこと。そして両者の関係は。地名が先で説話が後であること。ただ、当時の民間語源(フォルクス エチモロギ)意識を汲みとる点に有意義である。
(二) 地名と文字の関係。文字は音を表すためのものである場合がほとんどであるから、文字に意味を見出すことに重点を置いてはならないこと。ただし、もし表意文字として解してよい場合は、恐らく記紀風土記編纂者或いはその当時の人々の、語源意識と看做して差支えないこと。
(前掲書29頁)
 全く仰るとおりだと思う。
 しかし、西宮氏自身が設定したこの最初の二つに従うなら、「日下」を「日の下」という枕詞から生まれたものと推定することは避けなければならないのではないのだろうか。神武記や雄略記の説話は地名起源説話ではないが、「日下」という地名の字面から派生している可能性がないとは言えないし、私には同じ傾向の説話ではないかという「印象」を受ける。また、紛れもなく「日下」という文字に意味を見出している。「表意文字として解してよい」のだろうか。その根拠は、一例もない「枕詞的修辞」なのか?


 調べれば調べるほど納得できないこの問題であるが、実は「日下」だけでなく、長谷・飛鳥についても疑義が残る。『地名学研究』を読んで、これらについてもさらに考えて調べる必要を感じているのだが、それについては日を改めて報告したい。