2011年9月3日土曜日

「日下」問題その後(5)

 前回「長谷・飛鳥についても疑義が残る」と書いた。そのことから始めたい。
 なにしろ、枕詞的修辞句説の根拠は、長谷や飛鳥の例があることなのだから無関係ではないし、地名としてもこちらの方がメジャーだ。

(1)長谷について

(略)允恭記の「許母理久能(こもりくの) 泊瀬(はつせ)の山の」を始めとして、万葉では「隠国乃(こもりくの) 泊瀬の川に」(巻一、七九)とあるのが、表意文字としてのコモリクノを考えさせてくれよう。要するにハツセの地勢が、谷間にあって、山にかこまれてゐるから隠れる処、隠れる国、の意で枕詞になった、という説は肯定できる。
 そして地名ハツセは、「泊つる瀬」の意味で、上代の交通が川に沿って(川を横断する交通は先ず無い)行われたもので大阪湾から大和川を遡り、その上流初瀬川に至って、そこを舟つき場とした《「舟瀬」(万葉巻六、九三五)も同義》ことから、ハツセの地名が生じたと言われているのも正しかろう。
かつ「長谷」をハツセと訓み、ハツセを「長谷」とも書くのは、その地溪谷をなしていて、その地形よりナガタニと言い、恰も「長谷(ながたに)の泊瀬」という枕詞のような表現が、遂に長谷と書いてハツセと訓むに至った、という沢瀉久孝博士(『万葉集注釈』巻一)説に従うべきである。
(西宮氏「地名にかかる枕詞及びその地名」)

 これが西宮氏の説明の主要部である。
 また元になる説が別にあった。今度は沢瀉久孝である。『万葉集注釈』である。超定番ではないか。

 ならば確かめよう。『萬葉集注釋』巻1(昭和32年:中央公論)から引用する。

「泊瀨」はまた「始瀨」「長谷」とも書く。今は初瀨と書く。奈良県磯城郡初瀨(はせ)町は長谷(はせ)観音の所在地として知られてゐるが、萬葉時代の泊瀨は今の初瀨の西、舊朝倉村(櫻井市東部)のあたりをさしたものと思はれる。ハツセは「泊つる瀨」の意味で、上代の交通が川に添うて行はれ、大阪灣から大和川を遡り、その上流初瀨川に至ったので、そこを舟つき場といふ意味で名づけられたものかと考へる。「舟瀨(フナセ)」(6・935)といふ言葉もあるが、これも舟着き場の意味である。長谷と書くのはこの地溪谷をなしてをり、その地形によりナガタニといひ、「長谷(ながたに)の泊瀨(はつせ)」とハツセの枕詞のやうに用ゐられたのが、「飛鳥(とぶとり)の明日香(あすか)」「春日(はるひ)の滓鹿(かすが)」が「飛鳥(あすか)」「春日(かすが)」となったと同じやうに「長谷」をハツセともハセとも訓むに至ったものと思はれる
(前掲書10〜11頁)
(ともに下線はスズメ♂による)

 はい。これですね。分かりました。引用文献を書いてくれると話は早い。
 西宮氏の「長谷」についての解釈は、沢瀉氏の説そのままと言っていい(文言までほとんど同じである)。我が「相手」は、谷川健一→西宮一民→沢瀉久孝と、どんどんディープになってきた(笑)。

 また、これまで出典不明でチラチラと出てきていた「春日の滓鹿」がここに出ていることからも、また文の具合からも、長谷の語源を飛鳥や春日と同じであると推定する論法も、沢瀉氏が大元だったようだ

 さて、万葉研究の大権威である沢瀉氏だからと言って追及を諦めるわけではないぞっと。
 「長谷(はせ)」という地名は全国各地にかなりある。「長谷の泊瀬」からハセになったのなら、それと関係のない「長谷」はどう説明するのだろうか。鎌倉の長谷のように、奈良の長谷寺との関係が明らかな場合はともかく、だ。「ながたに」と読む地名もある。長谷部の居住から全部説明がつくのかどうか。
 それに、「泊瀬」を「ハセ」と読むのは聞いたことがあるが、「長谷」を「ハツセ」と読むのかも疑わしい。

 ついでに、「春日の滓鹿」という表記は本当にあるのだろうか。もし説明のために「ありそう」ということだけで「作った」のなら、高名な学者であるからこそ罪深いことだと言いたい。明らかにこの語は一人歩きをしている。

 飛鳥についてはまた後日。

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