拙サイトのコーナー「時には古代の話を」(http://osuzume.digiweb.jp/kodai.htm)に関連しての、 (1)更新情報 (2)記事upまでのメモ (3)来場された方のコメント場所のために開設しています。
2011年9月11日日曜日
「日下」問題その後(6)
(2)飛鳥について
以前にも書いたように、「枕詞が地名になる」例として、最も人口に膾炙しているのが、この「飛ぶ鳥のアスカ」だろう。
だが、改めて調べてみたところ、疑問が浮かんできた。
「飛ぶ鳥の 明日香の里を 置きて去なば 君があたりは 見えずかもあらむ」元明(1-78:和銅3年)
「飛ぶ鳥の 明日香の川の 上つ瀬に 生ふる玉藻は…」人麻呂(2-194:川島皇子の葬にて?朱鳥5年?)
「飛ぶ鳥の 明日香の川の 上つ瀬に 石橋渡し…」人麻呂(2-196:明日香皇女の殯宮)
「飛ぶ鳥 飛鳥壮士(おとこ)が …」(16-3791)
まず、意外と数が少ないこと。
最後の歌は竹取翁伝承を題材にした歌なので時期が特定しづらいが、あとの3首は特徴がある。
まず、時期が新しく集中していること。次に、遷都・殯宮という政治的な場面の歌であることだ。
1-78は和同3年(710)に藤原京から平城京へ遷都する時(「従藤原宮遷于寧樂宮時御輿停長屋原廻望古郷作歌」)の歌で、一書によれば元明天皇の作であるという。
2-194は河島皇子(691没)の殯宮の時に柿本朝臣人麻呂が泊瀬部皇女に献じた挽歌。
2-196は明日香皇女(700没)の殯宮の時に柿本朝臣人麻呂が献じた挽歌である。
このことと、前回は私の不勉強で理解できていなかった、飛鳥浄御原宮の命名に関する『日本書紀』の記事には関係がありそうだ。
「改元して朱鳥元年と曰ふ〈朱鳥、此れ阿訶美苔利と云ふ〉。仍って宮を名づけて飛鳥浄御原宮と曰ふ。」(686年7月20日)
この記事の読み方は難しいが、天武末年(まもなく病没する)に「朱鳥」と改元した際、「仍って」宮の名を「飛鳥浄御原宮」と名付けたというのであるから、「飛鳥浄御原宮」と「朱鳥」に関連があるはずで、それはおそらく共通している「鳥」であろう。
つまり、元号「朱鳥」に変えたので関連のある「飛鳥」のつく宮名に変えたわけで、遅くともここで「飛鳥」=「あすか」と呼ぶ言い方が生まれたことになる。
では、これが以前からあった「飛鳥(あすか)」を宮名につけただけなのか、あるいはもしかしてこの時に「飛鳥(あすか)」が出来たのか。
そこでさっきの万葉の例を見てみると、3首ともこの朱鳥元年(686)より後世の歌になっていることに気づく。
(もちろん、現在見る万葉集の表記がいつそうなったのかは分からないが、詠まれた時期より新しくなっても古くはならない。)
してみると、「飛ぶ鳥の」を「あすか」に結びつけた=枕詞を作ったのは、実はこの時(あるいは持統個人)ではないのか、という気がしてくる。
もちろんこれ以前にも、記紀には「飛鳥」という表記が多数あるが、編纂時にこの表記にそろえられた可能性も十分にある。
そもそも、飛鳥には河内飛鳥と大和飛鳥があり、その両方に「飛鳥」の字が用いられていることも不自然と言えば不自然。
河内の方には「安宿」という表記があるにもかかわらず、だ。
また、なぜ「飛ぶ鳥の」が「あすか」にかかるのかは、「春日」ほど定説を見ていない。そこに人為的なものを考えてみたくもなる。
また、二つの飛鳥に勢力を張っていたのは蘇我氏である。
「飛鳥」寺は、蘇我氏の氏寺である。
持統は、母が蘇我氏であり、また持統の子である草壁皇子の嶋宮がもと蘇我馬子の邸宅であったように、蘇我氏との結びつきの強かった人物でもある。
傍証の傍証でしかないが、朱鳥改元とともに「飛鳥(あすか)」を考えたのは彼女ではないか。
そのためあまり親しまれず、人麻呂など公的な歌でしか用例がないのではないか、と。
もしかすると、「飛鳥浄御原宮」は「とぶとりのきよみはらのみや」だったかもしれない。
その方が、より「朱鳥(あかみとり)」と直接に結びつくし、実は、人麻呂が草壁皇子(689年没)の殯宮の時に献じた挽歌に、
「飛ぶ鳥の 清御原の宮に 神ながら 太敷きまして」(2-167)
というのもあるからだ(もっとも、現表記は「飛鳥之」なので「あすかの」かもしれないが)。
だとすると、アスカにあった浄御原宮に「飛ぶ鳥」が使われたので、そこから枕詞が生まれ、表記も自然と「飛鳥」になったのかもしれない。金石文や木簡などを検討していないので、あくまで思いつきであるが。
(木簡データベースで「飛鳥」をざっと探したところ、飛鳥池遺跡から何例が出土しているが、年紀が分からない)
人麻呂の2-167歌や書紀の宮名設定の記事からは、そう読むほうが素直にも思える。
−−−−−
…という大胆すぎる意見になってしまった。
「日下」とは直接関係ないのだが、有名な「飛ぶ鳥のアスカ」がかなり新しく政治的なものである可能性があるのは確か。
そう簡単に枕詞の漢字が地名に転化しないのではないか、という気がしてきた。
「長谷」は実例がないし。
春日や長谷や飛鳥ほどの重要性があったとは思えない「日下」が、結びつく枕詞があって、それが地名に転化して、しかも古事記編纂時期には由来が忘れ去られている、というのが、少なくとも実感として腑に落ちないのだ。
他の地名については、これ以上は話題が出てきそうにない。
「日下」に戻って調べてみたい。
さしあたり、『古事記伝』を読んで、本居宣長の言い分を読んでみようと思う。ここまで色々調べてきて、時々『古事記伝』が引用されているのだが、ほんの少しだけの引用で全体像が分からないので。
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿