2010年11月1日月曜日

NHK(BS2)「追跡 平城京最大のクーデター」を見て

 全体として、やっぱり、実証的根拠をもとに考えるのは、とても楽しいです。知的好奇心を刺激されました。
 また、言うべきことはほぼ全部言ってくれていて安心して見れました。(例えば孝謙女帝が国家の大事は私がすると宣言したけど実態としては淳仁もちゃんと政治をしている、とか)。また、旧暦9月は寒いとか、月齢と日付(11日)とがちゃんと合っているとか、仲麻呂の使っていた硯も当時の形だとか、そういうところも嬉しい。
 また、よく知らなかった発掘結果(近江国府が大規模だったらしいこと、愛発関関連らしい遺跡)や、仲麻呂終焉の地(高島の乙女ヶ池)や埋葬伝承地なども見れてよかった。
 寸劇も、まあ気楽に楽しめていいかなす。藤原薩刷とか訓儒麻呂とか、マイナーな人物も登場してくれたし。

 刈谷さんのナレーションは申し分なし。
 エンドテロップで役者さんたちの名前が並んでいました。は高野八誠(たかのはっせい)さんが仲麻呂かな。
ウルトラマンガイア(藤宮博也役)や仮面ライダー龍騎(手塚海之役)などで活躍とのこと。日詰千栄さんは孝謙上皇役。笑福亭伯枝さんは道鏡でしょう。笑福亭純瓶さんは、鈴印奪い合い芝居の弁士でしょう。三谷昌登さんは藤原薩刷?、伊藤聡さんは淳仁?、森岡宏治さんはちょっと分からない、小塚舞子さんは仲麻呂の娘でしょう。

 以下は、気になったこと。

(1)仲麻呂の乱なのかどうかについて

 正直、私の感覚では、なぜそこまでこだわるのか実感できない。どちらから仕掛けたのか(どちらが悪いのか)という視点がそんなに大事なんでしょうかねぇ。
 すべからく「乱」は、負けた方が悪いとされるもので、それは仲麻呂に限らない。「逆賊」と続日本紀にかいてあるからといって、彼が極悪非道だと思う方が単純すぎないか。「供養」と書いた土器くらい見つかるだろう。
 皇国史観による「天皇=正義」の図式が根強く残っていると考え、ことさら声を上げるという趣旨なんだとは理解できるんですが…。何と言うか、まずは鵜呑みのするのはやめましょうよ、みなさん。

(2)孝謙の「天皇中心の国家」と仲麻呂の「律令を基礎にした国家」の違いが分かりにくい。

 ふつう学校で教わる日本史では、この両者は同じものとされているので。

(3)ところどころ根拠が分からない推定や復元がある

 例えば、駅鈴の争奪戦の再現の時間は、いくらなんでものんびりしすぎないか。仲麻呂の息子が殺されて夜まで遺体が転がっているとかちょっと考えがたい。あの時間経過の根拠が知りたい。
 近江国府がちょっと立派すぎる気がするのですが…。たぶんあれはかなり推測で、発掘もまだまだこれからなんでしょうが…。あんな都市が必要な人口が近江にあったのでしょうかね?
 あと、それにしても「ここに入れば仲麻呂の方が圧倒的に強い」とは言えないと思う。平城京はもっと大きいし、国家を相手にしているんだから戦力差は歴然じゃないですか。

(4)明らかにNHKの演出過剰やウソがある。

 これが一番問題。
 分かりやすかったのは、仲麻呂軍と追撃軍のコースの比較検証。35キロと45キロを同じ日に歩けるわけがないじゃないですか。ふつう大人の歩く速度は時速4キロですからざっと10時間ずつかかりますよ。
 あれは、ホントに刈谷さんたちが全部歩いたのでしょうか。違いますよね。説明と分析には、誰かが別の日に使って取ったデータを使い、刈谷さんが歩いたのはテレビ用にその一部だけ体験したんでしょう。そう疑って映像を見直すと、分岐点からの出発シーンの雰囲気(天候とか時間帯とか)がほぼ同じに見えます。つまり、先に両方の出発シーンを撮影して、たぶん仲麻呂軍のルートをちょっと歩き、すぐに戻って(たぶん車で)追撃軍のコースはかなり歩いたんでしょうね。放送されている映像の長さから判断して。
 惣山遺跡で、都合よく軒丸瓦が出演者によって発掘されたのも怪しいし、奈文研でアナウンサーが木簡の「衛」の文字を見つける場面もウソくさい(この字だというのも意図的)。

 一番気になったのは、「上皇側3ヶ月前準備」の根拠にあげられていた人事のことです。
 6月9日に死んだ藤原御楯の死亡した時の役職は確かに「授刀督(かみ)」ですが、その後任に弓削浄人が任命されたわけではありません(そうしか受け取れないようなナレーションでしたが)。映像では、続日本紀のページを示していて、いかにもこの二人の名前が関連して登場しているように見せていますが、実は弓削浄人の名前は、たまたま近い箇所に見えるだけで、この記事は彼の姓が連から宿禰に変わったというものです(しかも、日付は7月6日で1ヶ月近く後)。
 これは、明らかにミスリードです。
 この時の彼の位階は従八位上、役職は授刀少志(さかん)という、下級役人に過ぎません。彼はいつ「この部隊」(授刀衛)を動かせる立場になったのでしょう(長官である授刀督の官位相当は従四位上です)?
 確かに、彼はのち衛門督の地位に着きます。しかしそれは、おそらく彼が従八位上から従四位下に急昇進し氏姓を弓削御浄朝臣に改めた9月11日でしょう(衛門督の官位相当は正五位上)。つまり仲麻呂の挙兵した日です。彼の率いた部隊が仲麻呂側と戦いを繰り広げた(論拠がよく分かりませんが)としても、それは衛門府であり、最初の記述にある授刀衛とは違いますから、ナレーションは間違っています。

 誤解のないように書きますが、私は上皇側が何ヶ月も前から準備をしていたことは、さもありなんといか、否定する気はさらさらありません。しかし、放送で流れた説明は間違っているとしか思えません。

 分かりやすくしたつもりかもしれませんが、とにかく演出過剰です。小芝居はまだ笑えるとして、考証そのものに関わるところは堅実になってくれないと、説明そのものが怪しげに感じてしまいまい、残念です。

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